泉田純至
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泉田 純
プロフィール
リングネーム泉田 純太朗
泉田 純佑
泉田 竜舞
泉田 竜角
泉田 純
泉田 純至
泉田 純寿
IZU
本名泉田 純
ニックネーム隕石
身長185cm
体重130kg
誕生日 (1965-10-28)
1965年10月28日
死亡日2017年1月25日頃(満51歳没)
出身地宮城県栗原市
所属フリー
スポーツ歴大相撲
デビュー1992年5月25日
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泉田 純(いずみだ じゅん、1965年10月28日 - 2017年1月25日[1][2])は、日本プロレスラー、元大相撲力士宮城県栗原郡一迫町出身。全日本プロレスプロレスリング・ノアに所属していた。目次

1 経歴

1.1 大相撲

1.2 全日本プロレス

1.3 プロレスリング・ノア

1.4 フリー


2 人物

3 得意技

4 タイトル

5 入場テーマ曲

6 リングネーム

7 著書

8 脚注

9 外部リンク

経歴
大相撲

築館高校時代は相撲部に所属していた。東京農業大学を2年で中退して大相撲の東関部屋に入門し、高見将(たかみしょう)の四股名で1986年3月場所初土俵。後の取材では、祖父も急死しており、その分、父が苦労する姿を見て来たので、自分も頑張らねばという気持ちがあったことが明らかになり、それが入門の動機になっている。その後、四股名を青雲龍(せいうんりゅう)、武蔵海(むさしうみ)と改名して幕下まで進んだ。青雲龍を名乗っていた時期には相撲教習所で教官を務め、曙太郎の指導も担当していた。1991年9月限りで引退、通算成績は121勝103敗7休(34場所)。かつて指導していた曙が幕内優勝を果たした際、花束を贈り「でかい花輪が出せる立場ではないですから」と言っていたのも印象的なエピソードである[3]
全日本プロレス

大相撲引退後間もなく全日本プロレスに入団、練習生時代から「ファミリー軍団対悪役商会」の試合における大熊元司相手のヘッドバット合戦で注目を集めた。1992年5月25日、宮城県スポーツセンター大会での対大熊・渕正信永源遙戦で正式にデビューし、パートナーはジャイアント馬場&ラッシャー木村であった。デビュー後すぐ、タッグ戦で相手にやられて味方にタッチを求めるときに尺取虫のような動きで地を這いながら味方のもとへと逃げていく「尺取虫戦法」が話題となった[4][3]

リングネームはデビュー当時は泉田竜舞(いずみだ りゅうま)を名乗り、のちに泉田竜角(いずみだ りゅうかく)[5]のリングネームを経て、本名の泉田純をリングネームとした[3]

ジャイアント馬場の5000試合目の相手に選ばれたこともあれば(1993年4月20日・6人タッグ)、川田利明の怪我からの復帰戦の相手と発表されたこともあり(1999年12月3日)、結局、川田の復帰時期が早まり、その相手は小橋となったが、泉田も従来の予定通り、川田と激突。セミファイナル扱いだった。これなどは、1997年からの、シリアス・ファイト路線が評価されていた証である。ちょうどその時期、リングネームを竜角から本名に改名。その際に「親からもらった名前ですからね。大事にしないと」というコメントを残している[3]

1998年には本田多聞と「ザ・ヘッド・バッターズ」(ヘッド・バスターズとも)を組んで64代アジアタッグ王者となる(1回防衛)。ジャイアント・キマラとのタッグチームでも人気を博し、このタッグではペイントレスラーであったキマラに合わせて顔や体の一部にペイントを施した。対戦相手やイベントなどに合わせてペイントを変えるなどこだわりをもった。
プロレスリング・ノア

2000年、全日本プロレスの大量離脱騒動の時に同団体を退団し、プロレスリング・ノアの旗揚げに参加。2002年4月には一宮章一とのタッグによりIWAタッグ王座を獲得する。

2004年5月、白GHC(グローバル・ハードコア・クラウン)に挑戦するも敗北した。この頃から秋山準率いるスターネス入りを目指し、同年11月13日に行われた「勝ったら軍団入り決定マッチ」でダーク・エージェント入りを目指す川畑輝鎮に勝利、体重チェックもパスし念願のスターネス入りを果たした。

2005年にはノアの選手会会長に就任し、同年6月10日の選手会興行で自身の憧れの人でもある女子プロレスラーの下田美馬に「プロポーズ」を果たすべく奮戦し見事勝利を収めたが、「お友達から」と言う下田に対してキスを迫ったため、結局破談となってしまった。同年11月18日の後楽園ホール大会より新リングネーム純至に改名。

2006年1月22日の日本武道館大会では、小橋建太と組んで大相撲時代の弟弟子に当たる曙と初対戦した(曙のパートナーは力皇猛)。普段はほとんど見せないトペや得意のヘッドバットなどで曙を大いに苦しめたが、曙・力皇の合体技「リキボノスプラッシュ63」に敗れた。同年6月、志賀賢太郎のアプローチを断りきれず、半ば強引にパンチパーマにさせられた。その後、志賀をアニキ、泉田を叔父貴、太田一平を若頭、欠場中だった橋誠を取り巻き(セコンド)とするパンチ軍団を結成している。

2007年2月15日には試合中タッグパートナーの秋山に突如反旗を翻し、試合後にはスターネスからの離脱を表明し同じく前後してスターネスを追放された橋とチーム・成り上がりを結成した。タッグ化した白GHCに挑戦するも敗北、以降しばらくして同チームは自然消滅となった。

ノアにおいては時折ペイント・レスラーIZU(イズ)としても登場し、土曜日の興業に登場することが多かったため「土曜日の怪人」と呼ばれた。なお、スターネス参加以降はあまり登場していない。
フリー

2009年12月末日付で年間報酬保障フリー選手契約が満了[6]となりプロレスリング・ノアを退団、泉田はフリー選手となった。

2011年、リアルジャパンに参戦し久しぶりの表舞台に立った。

菊地毅、本田多聞とともにチーム頑(かたくな)を結成。

リングネームを泉田純寿に変えるが、間もなく泉田純佑に変更した。さらに2012年7月18日のブログでは泉田純太朗と名乗っている[7]

2012年、泉田が巨額詐欺事件に遭っていたこととノアが暴力団関係者の資金提供を受けていたことを暴露する本を宝島社より発表、これを受けて当時のノアの仲田龍ゼネラルマネージャーと相談役の永源遥が一般社員に降格する事となった[8]。2012年9月18日に「内側から見たノアの崩壊」と題した総決算本を刊行した。

2017年1月25日頃、神奈川県相模原市内の自宅で死去したことが、複数の関係者により明らかとなった。51歳没[1][2]。死因は心筋梗塞で、1月31日に遺体で発見された[2]。死去が明らかになるのが遅れたのは死去を伝えられた関係者が必ずしもプロレス関係者でなかったことによる[3]
人物

週刊プロレス誌面上にて秋山が泉田のお見合い相手を募集したものの、殆ど葉書が来ず、企画倒れとなった。しかし、泉田本人は結婚を諦めておらず、再び同誌・北斗晶のコーナーでお見合い相手を募集している。北斗が葉書を厳選して泉田に紹介するとのことであったが、お見合いは実現しなかった。

週刊プロレスが年に一回「プロレスラー選手名鑑号」の好きな有名人という項目には、同誌の編集長を務めていた『ターザン山本』の名前を上げている。

大変な釣り好きであり、田上明、本田多聞らが所属する「ノア・サーフクラブ」のメンバーでもあった。

かつて日本テレビ系で放送されていた「徳光&所のスポーツえらい人グランプリ」内での企画「スーパーアンパンマンショー」では必ずばいきんまん役となり、アンパンマン役のアスリートたちの全ての技を受けきったと言うことでグランプリを獲得したことがある。


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