泉州石工(せんしゅういしく)は近世に和泉国日根郡、現在の大阪府阪南市、泉南市、泉南郡岬町付近を本拠に全国で活躍した石工集団。近世初期に同じ近畿地方から出て全国で活躍した近江の穴太衆と異なるのは、近世城郭の巨大な石垣建設のための石組み工事よりむしろ、彼らは石彫を得意とし、石材の細密な加工や細かな碑文の製作も可能であり、築城が活発でなくなった近世中期以降にもその足跡を各地に残しており、活動時期が長かったことである。 江戸時代後期、寛政年間出版の和泉名所図会には泉州石工の地元で産出される和泉石(和泉砂岩)を狛犬、石灯篭、石臼に加工する彼らの姿が描かれている。同図会によると彼らが加工している和泉砂岩についても説明があり「名産和泉石 鳥取荘及び下箱作村、多く出る 某色、青白にして細密なり。石碑を造るに文字顕然たり。京師及び諸国に出ること多し…」とある。1986年(昭和61年)に、この石工集団の本拠のあった付近の阪南市箱作のミノバ石切場跡が広範囲に発掘調査され、石切場の遺構と加工途中の大量の石臼、茶臼、手洗鉢とともに、石材加工に使われた楔、鎚、先鑿などの鉄製工具類も数多く出土し、石材の切り出し過程から、石材製品の加工工程までが明らかにされた。石臼などの小型製品は地元泉州の石切場で製作し、石鳥居などの大型製品は現地に出張製作することが多かったことが推察される。発掘調査とともに行なわれた地元の古文書の調査によると、石工達は正月過ぎから各地に出稼ぎに出ており、石工としての活動が農閑期の季節労働であった可能性が示唆された。ミノバ石切場跡の調査でも石材の掘削で生じた大量の礫層の間に作業の中断を示す薄い砂の層がしばしば見られ、操業が年中されていたのではなく、冬場の農閑期に集中して行なわれたものと推定された。 泉州地方での石工集団の活動を示す最古の例としては古墳時代前期末の堺市二本木山古墳の刳抜式石棺と中期初頭に属する堺市乳岡古墳(百舌鳥古墳群の中の1つである)の長持形石棺がいずれも和泉砂岩製であり、この石材が産出される泉州地方南部で石工が活動し始めた証拠とされる。古墳時代後期においては泉州地方の最大の群集墳である和泉市信太千塚古墳群を始め、この付近の多くの古墳の石室構造にも和泉砂岩が使用されている。また7世紀に建立された泉南市海会寺 泉州石工の広範な地域にわたる活動の痕跡としては、現在、日本の石材工芸の三大産地は愛知県岡崎、香川県庵治・牟礼、茨城県真壁とされるがその内、岡崎市石屋町通りと現在の香川県高松市の庵治町・牟礼町の石材加工業は泉州の石工がその地方に移住したことに始まると言われている。宮城県仙台市に伝わる伝統芸能すずめ踊りの伝承者であり、仙台城の築城の時からの石材業者であるといわれる黒田家も仙台市稱楊山稱覚寺境内にある初代、黒田屋八兵衛の墓石に泉州日根郡と刻まれていることから、和泉国鳥取荘黒田(阪南市)出身の石工の末裔と考えられる。 泉州石工の出稼ぎと移住の時期について言えば、岡崎では近世初期の岡崎城の修築、仙台では同じく近世初期の伊達政宗による仙台城築城をきっかけとしたとされるが、庵治・牟礼の場合は文化11年(1814年)、高松藩(当時の藩主は松平頼儀)による屋島東照宮の造営によるものであり、200年もの年代差があり、非常に長期間にわたって広範囲に泉州地方から石工の出稼ぎが行なわれたことを示している。 江戸で活躍した泉州出身の石工としては江戸本材木町の石屋半四郎の存在が知られる。半四郎は日根郡樽井村の出身で宝永年間に地震で大破した郷里の専徳寺の再建に多額の資金を寄進している。この他に同じ日根郡の鳥取郷自然田村の宗門改帳によると享保13年(1728年)に江戸の八丁堀および弓町、柳原町に同村からだけで16名の石切(石工)の出稼ぎが出ているのが記録されている。江戸における相次ぐ大火や地震のせいか現在の東京都内には泉州石工を名乗る石工の作品の存在は知られていないが、これは、むしろ彼らが八丁堀の江戸石工の組織に既に所属しており、江戸においては泉州石工を名乗らなかったからと考えるべきだろう。その代わり、和泉屋仁右衛門 和泉屋善六、和泉屋太郎介など和泉屋の屋号を使った石工達の名を刻んだ狛犬、石灯篭、石塔などが散見されるようである。(最近、関東地域の石造物、とくに宝篋印塔を対象とする考古学的調査、研究によってこの地域の石塔が17世紀初めに関西系の形式に一変していることが明らかにされた。それによると、それまで関西の高野山などに集中して造立されていた和泉砂岩製宝篋印塔が、この頃、江戸に搬入されるようになり、間もなく江戸周辺地域において、それを模倣した伊豆安山岩製の石塔が造られ、やがてこれに、一部北関東の石塔の形式の要素を取り入れた石造塔、江戸形式塔と呼ばれる独自の形式が成立したとしている。また、この江戸形式塔は以後、大名や旗本の墓石として用いられ、これまでにない広域の分布を見せることとなったと言う。)同じ宗門改帳によると延享4年(1747年)以降には大坂西横堀に10名以上の石切の出稼ぎが継続されており、近世大坂の石工業の発展にも彼らが関わったことを示唆している。 現在も近畿、山陰、山陽 、四国、中部、東海など全国各地には彼らの生国である「泉州」または「和泉」と郷名および石工の姓名、製作年を彫り込んだ石灯篭、石鳥居、狛犬、石仏、石塔などが数多く存在する。和歌山県高野山奥の院、最大の五輪塔は徳川秀忠正室 崇源院(俗名 江)の高さ6,6mにおよぶ花崗岩製のものである。石塔本体には崇源院(江)の一周忌に、この石塔が建てられた寛永4年(1627年)9月15日の日付、崇源院の尊称および戒名、造立者の駿河大納言源忠長の名(秀忠の三男の駿府藩主徳川忠長)、背面に、石塔造立に関わった高位の武士や僧侶の姓名、基檀部分に供養塔建立の実際の工事に携わった下奉行5名の名前があり、最後尾にこの石塔の直接の製作者の名が「石作 泉州黒田村甚左衛門」と刻まれている。岐阜県瑞浪市 中切八幡神社の石鳥居の場合、享保12年(1727年)の年号、寄進者の姓名とともに「泉州日根郡信達之庄中村石工山内興一郎」と刻まれている。奈良県桜井市長谷寺境内にある石造多宝塔では「元禄八乙亥歳(1695年)四月十有二日 泉州自然田 石工七兵衛」となっている。
概要
起源と変遷
各地の石工、石材業との関連
各地に現存するその作品
参考文献
秋里籬島 和泉名所図会 柳原書店 1976年
ミノバ石切場跡 財団法人 大阪府埋蔵文化財協会 1988年
阪南町史 上巻 阪南町史編さん委員会 1983年
阪南町史 下巻 阪南町史編さん委員会 1977年
泉南市史 通史編 泉南市史編纂委員会 1987年
樽井町誌(覆刻阪) 樽井町誌覆刻委員会 2000年
岬町の歴史 岬町の歴史編さん委員会 1995年
渡辺益国 石屋史の旅 1987年 渡辺石彫事務所 P187 庵治 P211 岡崎
津村晃佑 現代を生きる伝統芸能―「すずめ踊り」の人類学的研究― 東北人類学論壇第2号 2003年 東北大学大学院文学研究科 人類学教室
仙台藩史辞典 仙台郷土研究会 2002年
「第二部 仙台城と近世城館 1仙台城の築城」 仙台市史 特別編 7 城館 2006年 仙台市史編さん委員会
黒田 孝次 「すずめ踊り黒田家伝承」 会報「堺すずめ踊り協賛会」第3号 2009年
畠中弘 「概説・山陰の石仏」 日本の石仏 3 山陰・山陽編 1984年 株式会社国書刊行会
瀬川欣一 「他国からも持ち込まれた石材」 近江 石の文化財 2001年 サンライズ出版
庵治産地石の要覧 庵治石振興会 1993年
「第十章 第三節 諸産業の発展 4.石材」香川県史 第4巻 近世編 2 1988年 香川県
坂詰秀一 監修 考古調査ハンドブック 5 石造文化財への招待 2011年 ニューサイエンス社 P90 P256 P328 P333
奥田尚 「高野山の石造物の石種」橿原考古学研究所論集 第十四 2003年 八木書店
外部リンク
⇒すずめ踊り黒田家四百年の伝承 (堺から日本へ、世界へ)
⇒屋島東照宮(牟礼のまちだより)
⇒専徳寺の雨水枡(古代史博物館)
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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
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