泉大津フェニックス
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堺泉北港
(写真は、大阪府泉大津市小津島町1-3にある
阪九フェリー乗り場』である。)

堺泉北港(さかいせんぼくこう)は、大阪府堺市堺区西区高石市泉大津市にある港湾大阪湾に注ぐ大和川 - 大津川間に位置する。港湾管理者は大阪府。港湾法上の国際拠点港湾に指定されている。


目次

1 概要

2 歴史

2.1 堺港

2.2 大津港


3 港勢

4 主な施設

5 姉妹・友好港

6 脚注

7 外部リンク


概要

1969年3月に、堺泉北臨海工業地帯とともに整備された特定重要港湾の堺港(堺市)と泉北港(高石市・泉大津市)を統合して設置された。港湾管理者は大阪府。1995年運輸省によるエコポートモデル事業に指定され、堺2区沖に人工干潟が造成された。港則法関税法上は神戸港尼崎西宮芦屋港大阪港とあわせて阪神港と称されている。臨海工業地帯の企業が有する専用岸壁の取扱いが多く、貨物取扱量の約7割を占める。一方でフェリーコンテナの取扱量は少ないのが特徴。

2008年から、国と大阪府によって、大規模災害時に救援物資の搬入・搬出支援などを行う基幹的広域防災拠点の整備が行われている。
歴史

中世から近世初頭にかけて遣明船朱印船による日明貿易南蛮貿易で栄華を極めた堺港と、古代から和泉国の国津としての歴史を持つ大津港が前身。大津港から泉北港への改称を経て、1969年3月に堺港と泉北港が統合され、特定重要港湾・堺泉北港となった。
堺港

三津七湊の1つ。応仁の乱以降、遣明船は西軍に占領された兵庫津を避けて堺港を発着するようになり、16世紀に入ると堺商人たちの活躍で南蛮貿易の一大拠点へと発展した。しかし、大坂の陣によって堺市街は灰燼に帰し、江戸時代には鎖国政策と大和川の付け替えによる土砂の流入で港湾機能は完全に衰退した。もとは現在地よりやや北東の堺区海山町付近に位置していたが、寛政年間の復興により現在地に新たに構築された。明治以降も改良工事が行われてきたが、1934年9月の室戸台風で壊滅し、1936年に大阪府が改修した。1957年、大阪府議会が堺港大臨海工業地帯造成計画を可決。埋立造成工事が行われ、八幡製鐵堺製鐵所などを誘致し、臨海工業地帯の物流を支える港として整備された。1959年6月に重要港湾1962年7月には特定重要港湾に指定された。臨海工業地帯造成以前の堺港は「旧堺港」として堺泉北港の一部となっているが、主にプレジャーボートの停泊地として利用されている。大波止の旧堺燈台、小波止の龍女神像がランドマーク
大津港

和泉国府外港として土佐日記更級日記などに登場し、江戸時代には和泉木綿の積出港として活況を呈した。明治以降、後背地において毛布の製造が始まると、羊毛をはじめとする取扱貨物量が急増したため、1937年に埋立造成が行われ近代化された(港湾面積約23万m2(平方メートル))。1961年、大阪府議会が泉北臨海工業地帯造成計画を可決。泉北郡高石町(当時)から泉大津市の沿岸部一帯を埋立て、工業港として整備された。1965年、港湾区域が助松地区や高石町にも拡大したことを受けて泉北港に改称された。臨海工業地帯造成以前の大津港も「旧大津港」として堺泉北港の一部となっているが、西港の沖合は埋立てられて東港のみ。さらに、東港の埠頭もきららタウン泉大津として宅地化しており、港湾機能は新港である小松埠頭に移っている。なお、西港沖合の埋立地のうち旧防波堤の外側は汐見埠頭の一部となっている。中央やや西港寄りに阪神高速4号湾岸線泉大津PAがあり、海側にきららセンタービル、陸側にホテルきららリゾート関空(旧・ホテルサンルート関空)の2つのビルが立っている。
港勢

取扱貨物量(2012年)、入港船舶総トン数(2011年)はいずれも全国11位[1]、入港船舶隻数(2011年)は全国第27位[2]である。

入港船舶数(2011年 ⇒平成23年大阪府港湾の港勢による)

隻数:30,956隻(外航2,252隻、内航28,704隻)- 公共岸壁7,149隻、企業専用岸壁23,807隻


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