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泉井 久之助人物情報
生誕 (1905-07-02) 1905年7月2日
日本大阪市天王寺
死没1983年5月28日(1983-05-28)(77歳没)
出身校京都帝国大学
学問
研究分野言語学
研究機関京都大学・京都産業大学
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泉井 久之助(いずい ひさのすけ、1905年7月2日 - 1983年5月28日)は、日本の言語学者。京都大学を中心に、第二次世界大戦前後に活動した。
経歴
1905年7月2日 大阪市天王寺に生まれる
1928年3月31日 京都帝国大学文学部言語学科卒業
1928年4月1日 同大学院入学(1931年3月まで)
1931年3月21日 同大学文学部講師
1936年10月15日 同大学助教授
1938年7月、1939年12月、1941年7月 3回にわたり南洋群島へ調査
1942年12月 仏領印度支那(ベトナム)へ調査
1946年12月 文学博士
1947年4月30日 京都帝国大学文学部教授
1948年11月8日 同大学付属図書館長
1950年9月 米国へ出張
1957年
7月 ノルウェーへ出張(第8回国際言語学者会議出席のため)
8月
京都大学評議員
米国・メキシコへ出張
1963年1月
日本学術会議会員
京都大学大学院文学研究科担当
1964年
3月 東京外国語大学付設アジア・アフリカ言語・文化研究所開設準備員、引き続き運営委員(1976年に至る)
11月 タイ、連合王国、スペイン、フランス、イタリア出張
1967年8月 ルーマニアへ出張(第10回国際言語学者会議へ出席・発表のため)
1968年
4月 Academia Latina di Roma会員
11月 大韓民国へ出張
1969年
3月 京都大学定年退職
4月 同大学名誉教授、京都産業大学教授
1970年4月 京都産業大学外国語学部長
1977年4月 日本言語学会会長
1978年4月 京都産業大学付設国際言語学学科研究所創設、所長
1980年4月 同大学名誉教授
1983年5月28日 永眠
(出典:堀井令以知「泉井久之助先生 (1905-1983)」『言語研究』1983年1に所収)
受賞・栄典
1971年11月 紫綬褒章受勲
1975年11月 勲二等瑞宝章受勲
研究内容・業績
専門の印欧語のみならず、世界の古今東西の言語にもまた通じていた。特に戦前3回にわたって実地調査を行ったマライ=ポリネシア諸語においては、それまで世界の学者が漠然と考えていた系統問題を、確立された方法論を以て解明した。
言語を表面的に取り扱うのみでは充分ではなく、その基盤には常に「哲学」がなくてはならないとの考えを持っていたことで、『フンボルト』(その改訂版『言語研究とフンボルト』)の著作がある。
主要著書
『言語學序説』(1943年7月、星野書店)
本著は新村出の名で出版されたが、泉井自身の回想では、これが「処女出版」だという。(崎山理「日本語学者列伝」、日本語学、2014年3月号参照)。なお発行月日は昭和十八年 (1943) 七月十五日付だが、巻末507頁(補遺)には「昭和八年(1933)二月稿」と見える。また新村の「序文」では「筆録に修訂に校正に、京都帝国大學文學部の泉井久之助助教授および松平千秋講師から並々ならぬ助力を受けたことに対して私は深甚なる感謝の意を表する。」とある。
『フンボルト』(1938年7月、「西哲叢書」弘文堂書房)
泉井が世に表した第1作で、ヴィルヘルム・フォン・フンボルト(1767-1835)の生涯を、その時代とのかかわりを通じて詳説したもの。単なる伝記ではなく、特に「言語研究」と題した127ページからの後半は、フンボルトの言語研究の成果を、泉井自身の言葉で表した個性の強い、しかし客観性を失わない作品といってよい。なお田邊元監修、他の著者も京都学派が多い。
『言語研究とフンボルト』(1976年11月、弘文堂)は、本書の補充・改訂版である。詳細は下記。
『言語の構造』(1939年8月、弘文堂書房/1967年、紀伊國屋書店)
古今東西の多くの言語を習得した泉井が、「言語の構造とその機能は、先ず理論的に予設せられた如何なる合理的な「体系」にも、常にははまり切らない」(1967年版まえがき、ii)との考えから、多くの実例と深い思考をもって、言語の実際に立ち向かった著書である。そして、「おおくの種々姓にわかれる世界の新古の言語の下に、やはり1つの人性の言語としての大きな統一がある」、つまりフンボルトの言う「一つの言語」(Eine Sprache)を認めないではいられない(133頁より)。本書は、しかし、抽象的な「空論」に満ちた著作ではなく、論証のために挙げられた実例は日本語・印欧諸語はもちろん、中央オーストラリア部のアランタ語、ジョルジュア(グルジュア)語、アラブ語、トラック諸島の言語にまで驚くべき広がりをもっている。1967年版には、「二重主語の構文と日本語」「言語年代論批判」「上代日本語における母音組織と母音の意味的交替」の3篇の論文も収められている。
『言語学論攷』(1944年1月、敞文館/1947年、改題『一般言語学と史的言語学』増進堂)
泉井がそれまでに発表した論文・雑記などをまとめた論集。若き泉井がいかに言語と言語学に取り組んでいたかを知るうえでも、興味深い論集である。たとえば、論文「最近佛蘭西言語学界の展望」は、フランス言語学会の趨勢を記述したものだが、泉井が史的言語学をはじめ一般言語学、特殊言語学、音声学をはじめ、中国音韻学の進展まで正確に把握していたことは、当時の通信事情を考えると、驚くほどである。(なお、本論には、泉井がついにまみえることのなかった師、アントワーヌ・メイエ〔1866-1936〕の追悼文も収録されている。)また京都帝国大学の卒業論文『印欧語におけるインフィニティヴの発達』も収録する。新村出教授に提出されたこの卒論に対して泉井は相当な自負を持っていたらしく、後年堀井令以知が、「『言語学論攷』17編の内、一番良いと思うものは?」と訊ねた際にも本卒論を挙げたという。また、「(卒論以降は)だんだん馬鹿になっている」とも言っていた由。