沼名前神社
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沼名前神社

拝殿
所在地広島県福山市鞆町後地1225
位置.mw-parser-output .geo-default,.mw-parser-output .geo-dms,.mw-parser-output .geo-dec{display:inline}.mw-parser-output .geo-nondefault,.mw-parser-output .geo-multi-punct,.mw-parser-output .geo-inline-hidden{display:none}.mw-parser-output .longitude,.mw-parser-output .latitude{white-space:nowrap}北緯34度23分10.82秒 東経133度22分42.12秒 / 北緯34.3863389度 東経133.3783667度 / 34.3863389; 133.3783667 (沼名前神社)座標: 北緯34度23分10.82秒 東経133度22分42.12秒 / 北緯34.3863389度 東経133.3783667度 / 34.3863389; 133.3783667 (沼名前神社)
主祭神大綿津見命
須佐之男命
社格式内社(小)
国幣小社
別表神社
創建(伝)第14代仲哀天皇2年
別名鞆祇園宮
例祭5月2日
主な神事お弓神事(2月第2日曜)
お手火神事(7月第2日曜前夜)
地図.mw-parser-output .locmap .od{position:absolute}.mw-parser-output .locmap .id{position:absolute;line-height:0}.mw-parser-output .locmap .l0{font-size:0;position:absolute}.mw-parser-output .locmap .pv{line-height:110%;position:absolute;text-align:center}.mw-parser-output .locmap .pl{line-height:110%;position:absolute;top:-0.75em;text-align:right}.mw-parser-output .locmap .pr{line-height:110%;position:absolute;top:-0.75em;text-align:left}.mw-parser-output .locmap .pv>div{display:inline;padding:1px}.mw-parser-output .locmap .pl>div{display:inline;padding:1px;float:right}.mw-parser-output .locmap .pr>div{display:inline;padding:1px;float:left}沼名前神社沼名前神社 (広島県)
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第二鳥居(広島県指定文化財)

沼名前神社(ぬなくまじんじゃ)は、広島県福山市鞆町後地にある神社式内社旧社格国幣小社で、現在は神社本庁別表神社

「鞆祇園宮(ともぎおんぐう)」の別称とともに、「祇園さん」の通称がある。
祭神

祭神は次の2柱[1]
主祭神


大綿津見命(おおわたつみのみこと) - 旧渡守神社祭神。

相殿神


須佐之男命(すさのおのみこと) - 旧鞆祇園宮祭神。

歴史

現在の沼名前神社は、明治に渡守神社(わたすじんじゃ)・鞆祇園宮(ともぎおんぐう)を合祀し、『延喜式神名帳の記載にならって「沼名前神社」と改称したものである[2]。神社側では、渡守神社が『延喜式』神名帳所載の式内社で、同社が現在に至るとしている[3]。現在の祭神2柱(大綿津見命須佐之男命)は、それまでの各社の祭神である[3]
渡守神社渡守社本殿奉斎以前の旧社殿。

社伝では渡守神社(現・沼名前神社)の創建に関して、第14代仲哀天皇2年に神功皇后が西国に向かった際、当地の霊石に綿津見命を祀り海路安全を祈ったことに始まるという[3]。そして帰途に際し、綿津見命の前に「稜威の高鞆(いづのたかとも。は弓具の1つ)」を奉じたことから、「鞆」の地名が起こったともいう[3]

平安時代中期の『延喜式神名帳では備後国沼隈郡に「沼名前神社」として式内社の記載がある。同帳では読みは「ヌナサキ」「ヌナクマ」の2説がある。その後、この式内社は所在不明となっていた[2]。近世以後の考証で現在は渡守神社に比定されているが、鞆にあるのか自体も明らかとなってはいない[2]

近世には、渡守神社は猿田彦神・船魂命(船玉命)を祭神としていたという[2]。元は後地平村もしくは鞆の関町にあったともいわれ、慶長年間(1596年-1615年)に祇園社の境内社として現在地に遷座したと伝えられる[2]明暦年間(1655年-1658年)には、藩主水野勝貞によって社殿が再建された[2][4]
鞆祇園宮

神社側は、鞆祇園宮の創建については不詳であるとしている[3]天長年間(824年-834年)の創建とも、保元年間(1156年-1159年)の勧請によるとも伝えられる[2]

祭神は、現在同様素盞鳴命(須佐之男命)であった[2]。元は鞆の関町に鎮座していたが、慶長4年(1599年)の火災で焼失し、現在地に遷座したという[5]

この鞆祇園宮を『備後国風土記』逸文に見える「疫隅国社(えのくまのくにつやしろ)」にあてる説もある[2]。当社は鞆の産土神として崇敬され、福山藩主からも多くの寄進を受け、社地も有していた[2]
近世以後の両社


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