治水
[Wikipedia|▼Menu]

治水(ちすい)とは、洪水高潮などの水害地すべり土石流・急傾斜地崩壊などの土砂災害から人間の生命・財産・生活を防御するために行う事業を指し、具体的には、堤防護岸ダム放水路遊水池などの整備や、河川流路の付け替え、河道浚渫による流量確保、氾濫原における人間活動の制限、などが含まれる。洪水で水没した街(ピーセク市,チェコ)河川と堤防(千種川,日本)オランダの大堤防
治水の概要と必要性

は人間生活にとって不可欠な資源であると同時に、水害や土砂災害などの危険ももたらす。水の持つ危険性を制御しようとする試みが治水であるが、一方で水を資源として使用するための制御、すなわち利水も必要となってくる。水の制御に取り組むという点において、治水は利水との共通性を持ち、両者に不可分の関係が生じるのである。そのため、広義の治水には、利水をも含むことがある。

治水に当たる英語はflood controlであるが、これは単に洪水調節のみを意味する。日本語における治水は、洪水調節のほか、土砂災害を防ぐ砂防や山地の森林を保安する治山をも含む、意味範囲の広い用語である。

いかなる治水対策を講じたとしても、全ての水災害を防ぐことは不可能である。どの水準の水災害までを防御するか、換言すれば、どの水準の水災害までを許容するかが、治水対策を行う上での立脚点となる。
歴史
概観

治水の始まりは、文明の始まりと強い関連性がある。世界四大文明に代表される多くの文明社会ではその草創期に氾濫農耕が行われ、農耕の発展により生産物余剰が蓄積されて都市が発生し、都市住民の維持を目的として安定した農耕体制を確立する必要に迫られた。安定した農耕を確立するためには、治水と灌漑の導入が不可欠であった。治水・灌漑の導入には労働力の集約を要したが、この労働力の集約を通じて初期国家が形成されたと考えられている。また、文明が発祥した地域の多くでは洪水が毎年定期的に発生したので洪水時期を推測するための暦法天文学が発生し、治水構造物を作るための土木技術度量衡なども発達した。

歴史上における治水技術は主に台風モンスーン地帯にあたる東アジアで発達していったが、近代的な治水技術はヨーロッパの中でも低地に国土を拡げてきたオランダで著しい進展を見せた。19世紀 - 20世紀以降は、高度に発達した土木技術を背景に成立した近代的治水技術によって水害による被害が著しく軽減されたものの、20世紀末期頃からヨーロッパを中心にそれまでの治水技術が自然環境に大きな負荷を与えていたことへの反省がなされ、自然回帰的な治水を指向する動きが強まっている。一方、多くの発展途上国ではいまだ十分な治水対策がなされず、繰り返される水災害に悩まされている地域も少なくない。
メソポタミア・西アジア

最古の治水の歴史を有する地域の一つがメソポタミアシュメル)である。メソポタミアでは、紀元前5000年までに2本の大河 - ティグリス川ユーフラテス川の氾濫原で農耕(氾濫農耕)が始まったとされている。同地域での治水・灌漑の開始時期は後期ウバイド文化期紀元前4300年 - 紀元前3500年頃と考えられている。この時期の治水は洪水時に河川から溢流した水を人工のため池に貯水するものであり、人工池の水はその後用水路を通って農耕地へと供給された。すなわち治水は灌漑と表裏一体の関係にあった。

紀元前18世紀頃にメソポタミアを統一したバビロン第1王朝ハンムラピ王の時に、ティグリス・ユーフラテス両河の治水体系が整備された。両河川の流域では毎年5月に上流の雪解け水に由来する洪水が発生していたが、洪水時の溢水を収容するため両河川を結ぶ数本の大運河と大運河を連結する無数の小運河の大運河網が作られた。これにより洪水の被害が軽減されるとともに、運河に溜められた水は灌漑に利用された。

ハンムラピ王期に建設された治水体系はその後、アケメネス朝紀元前6世紀 - 紀元前4世紀)・サーサーン朝3世紀 - 7世紀)に継承され、アッバース朝前期(8世紀 - 9世紀)には運河網が再整備されるなど、非常に長い間命脈を保った。しかし、10世紀以降は政治体制の混乱に伴ってメソポタミア地域の治水は次第に衰退していき、イルハン朝13世紀中期 - 14世紀中期)およびオスマン帝国14世紀 - 20世紀前期)において治水体系の再建が試みられたこともあったが、バビロン王朝盛時の高度な治水体系が再び復活することはなかった。
エジプトアスワン・ハイ・ダム

古代エジプトもメソポタミアと同じく、ナイル川という大河川の氾濫原に農耕が発生した。ナイル川上流域(エチオピアウガンダ周辺)では毎年6月に雨季が訪れ、多量の降水がナイル川に注がれる。多量の雨水はナイル川の長い流路を下っていき、9月 - 11月に下流域のエジプトへ洪水となって押し寄せる。この定期的な洪水は氾濫原に肥沃な土壌を残すとともに土中の塩分を洗い流したため、ナイル川下流域における高い収穫率をもたらした。このため、エジプトでは古代以来洪水を防御するための治水はほとんど行われず、もっぱら灌漑技術が発達していった。

近代に入り1902年アスワン・ダムが完成し、さらに1970年アスワン・ハイ・ダムが完成するとナイル川の洪水はほぼ制御できるようになった。しかし、ナイル川デルタなど下流域では洪水が発生しなくなった代わりに土壌の貧弱化・塩化が進み始めたため、以前は必要としなかった肥料に頼る農業へと転換していった。
インダス・南アジア・インドスカルドゥ近郊のインダス川(パキスタン)

インダス川河畔でインダス文明が興ったのは紀元前2600年頃のことと考えられている。インダス川流域では、毎年6月 - 7月の時期にモンスーンの到来によって雨季が訪れる。雨季の降水はインダス川の氾濫を起こしたが、氾濫原には肥沃な土壌と農耕用水の水源となる湿地が残された。インダス文明期には洪水期前になると川に沿って低い土手が作られた。この土手は洪水を防ぐものではなく、洪水によってもたらされた肥沃な土壌を耕地に貯め込むためのものだった。そのためメソポタミアやエジプトのように灌漑が発達することはなく、氾濫農耕に依存していたと考えられている。インダス文明の農耕は洪水を前提としていたので、水害を防ぐ治水はほとんど行われていなかった。

その後インド亜大陸ではガンジス川流域を中心として灌漑水利の発達が見られたものの、水害を防ぐという意味での治水はほぼ存在してこなかった。インドにおける治水の始まりは、1947年インド独立以降のことである。1948年に開始したダモーダル河谷総合開発事業がインドの治水の嚆矢であり、その後、1954年のインド大洪水を受けて「全国治水計画」が策定されるに至った。全国治水計画のもとで1万kmを超える堤防が建設されたほか、各州ごとに州治水政策に基づいた治水対策が行われているが、まだ十分な水準に達していないとされている。
ヨーロッパ宇宙から見たライン川河口デルタ(オランダ)イン川の氾濫原への溢水(オーストリア)

ヨーロッパは安定した地質の構造平野が広がり、河川は構造平野を掘り下げるように流れるため洪水時の氾濫原となる沖積平野はあまり広く形成されていない。台風モンスーンによる多量の降水もないので、水害が発生する頻度は例えば東アジア地域と比較すると高くはない。

ヨーロッパで治水が特に発達したのはオランダである。オランダはライン川マース川、スヘルデ川の河口デルタに立地し、かつ海面を干拓して土地を拡げたため国土の大部分が海面と同等かそれより低い。オランダでは水害を防ぐため河床を浚渫して河川流量を確保し、河川・海岸沿いには堤防をはりめぐらせ、さらに高潮対策として河口に堰を築くという近代的な治水技術が早くから成立した。

オランダ以外のヨーロッパでは治水の歴史に特筆すべきものはない。ヨーロッパ各地で本格的な治水対策が始まったのは20世紀以降のこととされている。ヨーロッパでは洪水による冠水は頻繁に発生しないため、河川付近の氾濫原を農地などに整備し、堤防を築いて河道を直流させ、上流にはダムを設置するという、水害を人工力で抑制しようとする治水対策が20世紀に入ってから主流となった。しかし、こうした治水対策は自然環境に大きな負荷を与えるばかりでなく、人工力を超える水害が発生した際はかえって被害が大きくなることが次第に判明していった。

1970年代頃から人工的に整備された河川を自然の姿に近づける試みがスイス西ドイツオーストリアを中心に始まり、1980年代になると近自然的治水工法が本格的に採用されていった。


次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:89 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef