治安維持法
[Wikipedia|▼Menu]
.mw-parser-output .ambox{border:1px solid #a2a9b1;border-left:10px solid #36c;background-color:#fbfbfb;box-sizing:border-box}.mw-parser-output .ambox+link+.ambox,.mw-parser-output .ambox+link+style+.ambox,.mw-parser-output .ambox+link+link+.ambox,.mw-parser-output .ambox+.mw-empty-elt+link+.ambox,.mw-parser-output .ambox+.mw-empty-elt+link+style+.ambox,.mw-parser-output .ambox+.mw-empty-elt+link+link+.ambox{margin-top:-1px}html body.mediawiki .mw-parser-output .ambox.mbox-small-left{margin:4px 1em 4px 0;overflow:hidden;width:238px;border-collapse:collapse;font-size:88%;line-height:1.25em}.mw-parser-output .ambox-speedy{border-left:10px solid #b32424;background-color:#fee7e6}.mw-parser-output .ambox-delete{border-left:10px solid #b32424}.mw-parser-output .ambox-content{border-left:10px solid #f28500}.mw-parser-output .ambox-style{border-left:10px solid #fc3}.mw-parser-output .ambox-move{border-left:10px solid #9932cc}.mw-parser-output .ambox-protection{border-left:10px solid #a2a9b1}.mw-parser-output .ambox .mbox-text{border:none;padding:0.25em 0.5em;width:100%;font-size:90%}.mw-parser-output .ambox .mbox-image{border:none;padding:2px 0 2px 0.5em;text-align:center}.mw-parser-output .ambox .mbox-imageright{border:none;padding:2px 0.5em 2px 0;text-align:center}.mw-parser-output .ambox .mbox-empty-cell{border:none;padding:0;width:1px}.mw-parser-output .ambox .mbox-image-div{width:52px}html.client-js body.skin-minerva .mw-parser-output .mbox-text-span{margin-left:23px!important}@media(min-width:720px){.mw-parser-output .ambox{margin:0 10%}}

この記事には複数の問題があります。改善ノートページでの議論にご協力ください。

出典がまったく示されていないか不十分です。内容に関する文献や情報源が必要です。(2016年3月)


信頼性問題があるかもしれない資料に基づいており、精度に欠けるかもしれません。(2016年3月)
出典検索?: "治安維持法" ? ニュース ・ 書籍 ・ スカラー ・ CiNii ・ J-STAGE ・ NDL ・ dlib.jp ・ ジャパンサーチ ・ TWL

治安維持法

日本の法令
法令番号大正14年法律第46号
種類刑法
効力失効
成立1925年3月19日
公布1925年4月22日
施行1925年5月12日
所管内務省警保局
司法省検事局
主な内容国体変革・私有財産制否定を目的とする結社・運動の取締
関連法令刑法、(旧)刑事訴訟法破壊活動防止法
条文リンク官報1925年4月22日
ウィキソース原文
テンプレートを表示

治安維持法

日本の法令
通称・略称治維法
法令番号昭和16年法律第54号
種類刑法
効力廃止
成立1941年3月1日
公布1941年3月10日
施行1941年5月15日
所管内務省[警保局]
拓務省[管理局]
陸軍省[法務局]
海軍省[法務局]
司法省[検事局]
主な内容国体変革・私有財産制否定を目的とする結社・運動の取締
関連法令刑法、(旧)刑事訴訟法破壊活動防止法
条文リンク官報1941年3月10日
ウィキソース原文
テンプレートを表示

治安維持法(ちあんいじほう)は、国体皇室)や私有財産制を否定する運動を取り締まることを目的として制定された日本法律

1925年大正14年)に治安維持法(大正14年4月22日法律第46号)として制定された。その後、1928年(昭和3年)6月29日公布の緊急勅令(昭和3年勅令129号)で修正が加えられた。さらに1941年(昭和16年)にも全面改正(昭和16年3月10日法律第54号)された。

第二次世界大戦敗戦直後の1945年(昭和20年)10月15日GHQの人権指令を受け、『昭和二十年勅令第五百四十二号「ポツダム」宣言ノ受諾ニ伴ヒ発スル命令ニ関スル件ニ基ク治安維持法廃止等ノ件』により廃止された。

大韓民国において左翼勢力を除去するために制定された国家保安法は、本法律を母体としている[1]
経緯
前身

元々、明治憲法において表現の自由結社の自由の制限に当たっては、「法律ノ範囲内ニ於テ有ス」(第29条)と「凡テ法律ハ帝国議会ノ協賛ヲ経ルヲ要ス」(第37条)に基づき、帝国議会を通じた法律の制定を必要条件とした。そして、最終的には、天皇による法律の裁可について規定した第6条(「天皇ハ法律ヲ裁可シ其ノ公布及執行ヲ命ス」)によって、法律に基づく自由の制限が効力を持った。

明治後期、表現の自由や結社の自由の制限を目的として定めた法律が、治安警察法だった。また、天皇の地位は「神聖にして不可侵」(第3条)であり、個人に対しては刑法不敬罪によって解釈や罰則が定められたが、団体に対しては神聖なる天皇の地位を「侵す」行為の定義について、議論の余地があった。詳細は「大日本帝国憲法第29条#原文」および「表現の自由#大日本帝国憲法(明治憲法)」を参照「不敬罪#日本」および「治安警察法#内容」も参照

1920年(大正9年)より、政府は治安警察法に代わる治安立法の制定に着手した。1917年(大正6年)の十月革命ロシア革命)による共産主義思想の拡大を脅威とみて企図されたといわれる(レーニンの敗戦革命論も参照)。また、1921年(大正10年)4月、近藤栄蔵コミンテルンから受け取った運動資金6,500円で芸者と豪遊し、怪しまれて捕まった事件があった。資金受領は合法であり、近藤は釈放されたが、政府は国際的な資金受領が行われていることを脅威とみて、これを取り締まろうとした。また、米騒動など、従来の共産主義・社会主義者とは無関係の暴動が起き、社会運動の大衆化が進んでいた。特定の「危険人物」を「特別要視察人」として監視すれば事足りるというこれまでの手法を見直そうとしたのである。

1921年(大正10年)8月、司法省三宅正太郎らが中心となり、「治安維持ニ関スル件」の法案を完成し、緊急勅令での成立を企図した。しかし内容に緊急性が欠けているとする内務省側の反論があり、1922年(大正11年)2月、過激社会運動取締法案として帝国議会に提出された[2]。「無政府主義共産主義其ノ他ニ関シ朝憲ヲ紊乱」する結社や、その宣伝・勧誘を禁止しようというものだった。また、結社の集会に参加することも罪とされ、最高刑は懲役10年とされた。

これらの内容は、平沼騏一郎などの司法官僚の意向が強く反映されていた。しかし、具体的な犯罪行為がなくては処罰できないのは「刑法の缺陥」(司法省政府委員・宮城長五郎の答弁)といった政府側の趣旨説明は、結社の自由そのものの否定であり、かえって反発を招いた。また、無政府主義や共産主義者の法的定義について、司法省は答弁することができなかった。さらに、「宣伝」の該当する範囲が広いため、濫用が懸念された。その結果、3月24日貴族院では法案の対象を「外国人又ハ本法施行区域外ニ在ル者ト連絡」する者に限定し、最高刑を3年にする修正案が可決したが、衆議院で審議未了、廃案になった。

この法案は当時の知識人からも批判を受けていた。末弘厳太郎[注釈 1]福田徳三らは、強力な権力で社会運動を取り締まることの無効性を突いた[4]。作家の芥川龍之介は1922年(大正11年)『新潮』4月号誌上に寄稿し、社会主義を危険視する政府の姿勢には驚くばかりであると批判している[5]

また、1923年(大正12年)に関東大震災後の混乱を受けて公布された緊急勅令治安維持ノ為ニスル罰則ニ関スル件(大正12年勅令第403号)も前身の一つである。これは、治安維持法成立と引き替えに緊急勅令を廃止したことで、政府はその連続性を示している。
法律制定「コミンテルン」も参照

1925年(大正14年)1月、日ソ基本条約が締結されソビエト連邦との国交が樹立されたが、加藤高明内閣(護憲三派内閣)で司法大臣横田千之助が2月4日に急逝した[注釈 2]。その後任に小川平吉(取締法推進派[7])が就任し[注釈 3]共産主義革命運動の激化の懸念などをもって治安維持法の制定を推進し、4月22日に同法が公布、同年5月12日に施行された[8][注釈 4]

普通選挙法とほぼ同時に制定されたことから、「飴と鞭」の関係にもなぞらえられ、成人男性の普通選挙実施による政治運動の活発化を抑制する意図など、治安維持を理由として制定されたものと見られている。治安維持法は即時に効力を持ったが、普通選挙実施は次の総選挙の1928年[注釈 5]となった。 法案は過激社会運動取締法案の実質的な修正案であった[11]が、過激社会運動取締法案が廃案となったのに対して治安維持法は可決した。奥平康弘は、治安立法自体への反対は議会では少なく、法案の出来具合への批判が主流であり、その結果修正案として出された治安維持法への批判がしにくくなったからではないかとしている[12]

1925年(大正14年)法の規定では「国体ヲ変革シ又ハ私有財産制度ヲ否認スルコトヲ目的トシテ結社ヲ組織シ又ハ情ヲ知リテ之ニ加入シタル者ハ十年以下ノ懲役又ハ禁錮ニ処ス」をおもな内容とした。過激社会運動取締法案にあった「宣伝」への罰則は削除された。.mw-parser-output .side-box{margin:4px 0;box-sizing:border-box;border:1px solid #aaa;font-size:88%;line-height:1.25em;background-color:#f9f9f9;display:flow-root}.mw-parser-output .side-box-abovebelow,.mw-parser-output .side-box-text{padding:0.25em 0.9em}.mw-parser-output .side-box-image{padding:2px 0 2px 0.9em;text-align:center}.mw-parser-output .side-box-imageright{padding:2px 0.9em 2px 0;text-align:center}@media(min-width:500px){.mw-parser-output .side-box-flex{display:flex;align-items:center}.mw-parser-output .side-box-text{flex:1}}@media(min-width:720px){.mw-parser-output .side-box{width:238px}.mw-parser-output .side-box-right{clear:right;float:right;margin-left:1em}.mw-parser-output .side-box-left{margin-right:1em}}ウィキソースに治安維持法中改正ノ件の緊急勅令の法文があります。

1928年(昭和3年)に緊急勅令「治安維持法中改正ノ件」(昭和3年6月29日勅令第129号)で改正された後、1941年3月10日に全7条から全65条に改正された(昭和16年3月10日法律第54号)。
1928年改正
「国体変革」への厳罰化
1925年(大正14年)法の構成要件を「国体変革」と「私有財産制度の否認」に分離し、前者に対して「国体ヲ変革スルコトヲ目的トシテ結社ヲ組織シタル者又ハ結社ノ役員其ノ他指導者タル任務ニ従事シタル者ハ
死刑又ハ無期若ハ五年以上ノ懲役若ハ禁錮」として最高刑を死刑とした。
「為ニスル行為」の禁止
「結社ノ目的遂行ノ為ニスル行為ヲ為シタル者ハ二年以上ノ有期ノ懲役又ハ禁錮ニ処ス」として、「結社の目的遂行のためにする行為」を結社に実際に加入した者と同等の処罰をもって罰するとした。
改正手続面
改正案が議会において審議未了となったものを、緊急勅令のかたちで強行改正したこと[注釈 6][13]。この背景には、政権母体の立憲政友会の中で意見が割れたことで審議未了となったため、田中首相は緊急勅令を用いて改正した。
1941年改正
結社の規制
「国体ノ変革」結社を支援する結社、「組織ヲ準備スルコトヲ目的」とする結社(準備結社)などを禁ずる規定を創設した。官憲により「準備行為」を行ったと判断されれば検挙可能であった。また、「宣伝」への罰則も復活した。「国体ノ変革」が要件であり、当たり前ながら誰でも検挙できるわけではなかったことに留意する必要がある。
戦後裁判再審となった事件は、大半が日本共産党関係者に関わるものである。
刑事手続面
従来法においては刑事訴訟法によるとされた刑事手続について、特別な(官憲側にすれば簡便な)手続を導入したこと、たとえば、本来判事の行うべき召喚拘引等を検事の権限としたこと、二審制としたこと、弁護人は「司法大臣ノ予メ定メタル弁護士ノ中ヨリ選任スベシ」としたことなど。
予防拘禁制度
刑の執行を終えて釈放すべきときに「更ニ同章ニ掲グル罪ヲ犯スノ虞アルコト顕著」と判断された場合、新たに開設された予防拘禁所にその者を拘禁できる(期間2年、ただし更新可能)としたこと。
検挙対象の拡大
1935年から1936年にかけて、思想検事に関する予算減・人員減があった。1937年6月の思想実務者会同で、東京地方裁判所検事局の栗谷四郎が、検挙すべき対象がほとんど払底するという状況になっている状況を指摘し、特別高等警察と思想検察の存在意義が希薄化されるおそれが生じていることに危機感を表明した[14]。そのため、新たな取締対象の開拓が目指されていった。治安維持法は適用対象を拡大し、宗教団体・学術研究会(唯物論研究会)・芸術団体なども摘発されていった。
廃止

1945年(昭和20年)の敗戦後も同法の運用は継続され、むしろ迫りくる「共産革命」の危機に対処するため、断固適用する方針を取り続けた。

同年8月下旬から9月上旬において、司法省では岸本義広検事正を中心に、今後の検察のあり方について話し合いを行い、「天皇制が残る以上は治安維持法第一条を残すべき」との意見が出ていた[15]。ほか、岩田宙造司法大臣が政治犯の釈放を否定している。

同年9月26日に同法違反で服役していた哲学者三木清腎臓病の悪化により獄死している。10月3日には東久邇宮内閣山崎巌内務大臣は、イギリス人記者のインタビューに答え、「思想取締の秘密警察は現在なほ活動を続けてをり、反皇室的宣伝を行ふ共産主義者は容赦なく逮捕する」方針を明らかにした。


次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:97 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef