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出典検索?: "治天の君"
治天の君(ちてんのきみ)は、日本の古代末期から中世において、皇室の当主として政務の実権を握った天皇または太上天皇(上皇)を指す用語。治天の君は事実上の君主として君臨した。ただし、「治天の君」については在位の天皇を含める立場[1][2][3][4][5]と在位の天皇を含めず院政を行う上皇に限る立場[6]とがある。
上皇が治天の君である場合、天皇は在位の君とよばれる。また上皇が治天の君として行う院政に対して、天皇が治天の君として政務に当たることを親政という。治天の君は、治天下(ちてんか)、治天(ちてん)、政務(せいむ)などとも呼ばれた。以下、本項では治天の君を「治天」という。 「治天」は、古くは地神五代のうち天照大神以外の4神が君主号として用いたという記録[7]がある。その後、天皇や皇族の敬称号として5世紀後半までに「治天下大王(あめのしたしろしめすおおきみ)」が成立していたが、その後は律令の整備によって使用されなくなっていた。 平安時代後期の院政の開始により、「治天」の語が再び登場した。それまでは、藤原北家が摂政・関白(天皇の代行者・補佐者)として政治実権を持つ摂関政治が行われていた。あくまで律令官制の最高位に君臨するのは天皇であり、その天皇を代行・補佐することが、摂関の権力の源泉となっていた。しかし、白河上皇に始まる院政では、上皇が子へ譲位した後も、直接的な父権に基づき政治の実権を握るようになったため、摂関政治はその存立根拠を失った。この変遷は、天皇の母系にあたる摂関家が、天皇の父系にあたる上皇に、権力を奪われたものとみることができる。 平安中期から後期頃から、特定の官職を一つの家系で担うことが貴族社会の中で徐々に一般化しつつあった。官職に就くことは、その官職に付随する収益権を得ることも意味しており、官職に就いた家系の長(家督者)は、収益を一族へ配分する権限・義務を持った。このような社会的な風潮は皇室へも影響し、皇室の当主となった者が、本来の天皇の権限を執行するようになったのだろうと考えられている。 この皇室の当主が、実質的な皇朝の君主であり、治天と呼ばれるようになった。複数の上皇が併存することもあったが、治天となりうるのは1人のみであり、治天の地位を巡って上皇・天皇同士の闘争さえ発生した(保元の乱)。治天が実質的な君主になると、天皇はあたかも東宮(皇太子)のようだ、とも言われた。実際、院政が本格化すると皇太子を立てることがなくなっている。 治天となりうる資格要件は大きく2つある。まず、天皇位を経験していること。次に、現天皇の直系尊属であること。この結果、治天になれなければ、自らの子孫へ皇位継承できないことを意味しており、治天の座を獲得することは死活問題であった。ただし、鎌倉時代以降になると、皇位に就かなかった後高倉院が治天となったり、光明天皇の直系尊属ではない光厳上皇が治天となったように、前述の資格要件が必ずしも満たされない場合も出現した。 ただし、「治天の君」という言葉が出現するのは後嵯峨院政後の後深草上皇・亀山天皇の並立状態以降に生まれたとされている[4]。 応徳3年(1086年)に白河天皇が皇子の堀河天皇へ譲位し、院政を開始した時が、治天の成立だと考えられている。 しかし、治天の権限の中軸を占める皇統決定権、すなわり次期皇位継承とそのために必要な皇室財産を継承する者を決める確立したのは後三条天皇である。皇位継承者の決定は長い間藤原北家の嫡流、すなわち後世摂関家と呼ばれる家の意向が大きく影響していた。しかし、延久元年(1069年)、後三条天皇は摂関家が藤原彰子(上東門院)・藤原頼通・藤原教通の3姉弟の間で主導権争いが生じている隙を突いて長男の貞仁親王を立太子し、更にその3年後には次男の実仁親王を立太子することを条件に貞仁に譲位、更に翌年に後三条上皇が崩御する際には現存しないものの恐らくは遺詔の形で実仁の次の皇太子には三男の輔仁親王を指名した。貞仁の養外祖父の藤原能信は摂関家ながら異母兄弟である3姉弟とは競合関係にあり、実外祖父の藤原公成も摂関家の嫡流からは外れた閑院流の出身、実仁・輔仁の外祖父の外祖父である源基平は摂関家によって皇太子を辞退させられた敦明親王(小一条院)の子、と全て摂関家と対立する家々の出身で、なおかつ全員故人という3代先まで摂関家が関与する余地がない皇位継承を実現させようとした[8]。 しかし、後三条天皇の計画には大きな誤算があった。すなわち、3代先まで皇位継承者を決めたことで、自身の子孫への皇位継承が不確かなものとなった貞仁親王――即位して白河天皇の不満を抱かせたこと、加えてそれを決めた後三条上皇が譲位からわずか1年で崩御したために、計画を具体的に実現させることが不可能になったことであった。白河天皇は父の計画を覆すために、父が崩御すると頼通の後継者である藤原師実の養女賢子(実父は源顕房)を中宮に立てて敦文親王(早世)・善仁親王(後の堀河天皇)を立て続けに儲けて摂関家の協力を得ることに成功する。そして、応徳2年(1085年)に皇太子である実仁親王が病死すると、その翌年には白河天皇は次の皇太子には輔仁親王ではなく善仁親王を立てて、なおかつその日のうちに譲位をしてしまった。一見すると後三条天皇が確立した皇統継承権を息子の白河天皇が覆してしまったように見える現象であるが、実際には白河天皇は摂関家の協力を得ながらも自己の皇統継承権を確立することで実現させたものであり、謂わば父親の方針の換骨奪胎の上に確立させたのであった。勿論、当時8歳の堀河天皇では実際の政務が困難であり、ここに皇統決定権のみならず政務の主導権をも掌握した治天が登場することになったのである[9]。 堀河天皇は皇位にありながら、政治の実務は白河上皇が行っていた。堀河天皇が崩御してその皇子鳥羽天皇が即位しても白河法皇が政務を担った。鳥羽天皇の治世の当初、摂関家当主であった藤原忠実はまだ若く、新天皇の摂政を務める資質に疑問視を抱かせていたが、白河法皇自らが忠実の後見になったことで摂関家からすれば皇位継承に関与するどころが治天に摂関家継承を関与される状況に陥ってしまった[10]。また、後三条上皇の遺志に反して、摂関家と結んで堀河・鳥羽の2代の幼帝を擁立した白河法皇を排斥して輔仁親王に皇位を継承させようとする動きも永久元年(1113年)に発生した永久の変によってとどめを刺され、輔仁親王の子である有仁は臣籍降下を選択せざるを得なくなった。ここにおいて白河法皇が不安定であった皇統継承権を名実ともに掌握したことになる[11]。白河法皇は、自分の養女であった藤原璋子を鳥羽天皇の后にして、顕仁親王(後の崇徳天皇)を誕生させた。白河法皇は璋子の実父である藤原公実が既に亡くなっていることを口実に自らが顕仁の外祖父として振る舞い、結果的に父の後三条上皇が果たせなかった(阻止したのは白河法皇自身ではあるが)3代先までの皇位継承を実現させることになった[12]。 白河法皇が崩御すると、崇徳天皇に譲位し既に上皇となっていた鳥羽上皇が治天となり、院政を開始した。白河法皇も鳥羽法皇も積極的な政策展開を行い、専制的な院政の典型とも、院政の最盛期とも評されている。 保元元年(1156年)、鳥羽天皇が崩御すると、崇徳上皇と後白河天皇の兄弟が治天の座を巡って争い、後白河天皇が勝利した(保元の乱)。後白河天皇は2年後の保元3年(1158年)に譲位すると院政を開始した。平清盛による院政停止や高倉院政の開始によって治天の地位から追われたことがあったが、清盛の死去と高倉上皇の崩御によって復活、それからは建久3年(1192年)に崩ずるまで治天の地位を保った。
成立と意義
略史
成立期
平安後期
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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
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