.mw-parser-output ruby.large{font-size:250%}.mw-parser-output ruby.large>rt,.mw-parser-output ruby.large>rtc{font-size:.3em}.mw-parser-output ruby>rt,.mw-parser-output ruby>rtc{font-feature-settings:"ruby"1}.mw-parser-output ruby.yomigana>rt{font-feature-settings:"ruby"0}河鍋(かわなべ) 暁斎(きょうさい)
誕生日 (1831-05-18) 1831年5月18日(天保2年4月7日)
出生地 日本・下総国古河石町(現茨城県古河市)
死没年 (1889-04-26) 1889年4月26日(57歳没)
死没地 日本・東京府
国籍 日本
芸術分野
浮世絵
日本画
禅画
⇒河鍋暁斎記念美術館 - 館長は暁斎の曾孫で、暁斎の娘 暁翠の孫の河鍋 楠美 医学博士
教育歌川国芳
前村洞和
河鍋 暁斎(かわなべ きょうさい、1831年5月18日〈天保2年4月7日〉 - 1889年〈明治22年〉4月26日)は、幕末から明治にかけて活躍した浮世絵師、日本画家。号は「ぎょうさい」とは読まず「きょうさい」と読む。それ以前の「狂斎」の号の「狂」を「暁」に改めたものである[1]。
明治3年(1870年)に筆禍事件で捕えられたこともあるほどの反骨精神の持ち主で、多くの戯画や風刺画を残している。狩野派の流れを受けているが、他の流派・画法も貪欲に取り入れ、自らを「画鬼」と称した。
来歴
生い立ち長唄の会 番組「連獅子」より河鍋暁斎記念美術館(埼玉県蕨市、暁斎の個人美術館)「閻魔と地獄太夫図」 制作時期不明 プライスコレクション 河鍋暁斎記念美術館にもほぼ同図様の作品がある
天保2年(1831年)、下総国古河石町(現茨城県古河市中央町2丁目)にて、河鍋記右衛門ときよの次男として生まれる。父は古河の米穀商亀屋の次男の生まれで、古河藩士・河鍋喜太夫信正の養嗣子で、母は浜田藩松平家の藩士三田某の娘。天保3年(1832年)に江戸へ出て幕臣の定火消同心の株を買って本郷お茶の水の火消し屋敷(現本郷3丁目)に住み、甲斐姓を名乗る。同時に一家は揃って江戸に出ている。幼名は周三郎といい、河鍋氏を継いだ。兄に直次郎がいた。天保4年(1833年)、周三郎は母につれられ館林の親類、田口家へ赴いた。この時、初めて周三郎は蛙の写生をした。 天保8年(1837年)、浮世絵師歌川国芳に入門。国芳は門弟に人を搏ち、組み伏せ、投げ飛ばし、また投げ飛ばされる様々な形態を注意深く観察すべきだと教えていた。若き暁斎は、この師の教えを忠実に実行するため、一日中画帖を片手に貧乏長屋を徘徊し、喧嘩口論を探して歩いたという。天保10年(1839年)5月、梅雨の長雨による出水時に神田川で拾った生首を写生し、周囲を吃驚させたという「生首の写生」の伝説を残す。
修行時代
嘉永元年(1848年)に、現存する暁斎最初期の肉筆作品「毘沙門天之図」(河鍋暁斎記念美術館蔵)を制作している。翌嘉永2年(1849年)、洞白より洞郁陳之(とういくのりゆき)の号を与えられる。狩野派の修業は、橋本雅邦によると一般に入門から卒業まで11、2年かかると記しており、9年で卒業した暁斎は優秀といえる。さらに嘉永3年(1850年)11月には館林藩(秋元家)の絵師坪山洞山の養子になって、坪山洞郁と称している。 嘉永5年(1852年)、遊興がたたって(珍しい帯の写生をするために女中の尻を追っていって誤解されたといわれる)坪山家を離縁され、暫くは苦難の時代が続いた。しかし一方で暁斎は、土佐派、琳派、四条派、浮世絵など日本古来の画流も広く学んでいた。その数年後の安政2年(1855年)10月2日に起こった安政江戸地震の時に、仮名垣魯文の戯文により描いた鯰絵「お老なまず」によって本格的に世に出ることとなった。この鯰絵は地震で壊滅した遊廓の吉原が仮店舗で営業しているという広告のようなもので、暁斎の錦絵第1号であったが、それは歌川豊国風の女性と鯰の格好をしている遊び人の組合せで、彫りも悪く暁斎にとっては名誉ある処女作とはとても言いがたいものであった。またこの時期、蒔絵師菱田八十八のもとで下絵を描いている。安政4年(1857年)、江戸琳派の絵師鈴木其一の次女お清と結婚、絵師として独立するとともに父の希望で河鍋姓を継承した(甲斐家は3年後、暁斎の兄直次郎が継承)。『新富座妖怪引幕』(1880年、早稲田大学坪内博士記念演劇博物館) 安政5年(1858年)、狩野派を離れて「惺々狂斎」と号し、浮世絵を描き始め戯画・風刺画で人気を博した。他に万延元年(1860年)頃から周麿と称して錦絵を描き始めている。ほかに酒乱斎雷酔、酔雷坊、惺々庵などの号があり、文久3年(1863年)、歌川派の絵師による合作「御上洛東海道」に参加した。明治4年(1871年)以後、号を「暁斎」と改める。明治18年(1885年)には湯島の霊雲寺の法弟になって是空入道、如空居士と号した。幕末期は、『狂斎画譜』『狂斎百図』などを出版したほか、漢画、狂画、浮世絵それぞれに腕を振るった。 明治元年(1868年)、徳川家の転封とともに暁斎の母と甥(亡くなった兄・直次郎の息子)は静岡へ移る。明治3年(1870年)10月6日、上野不忍池の長?亭における書画会において新政府の役人を批判する戯画を描き、政治批判をしたとして捕えられ未決囚の入る大番屋へ。翌年に放免、後は「暁斎」を名乗る。「幽霊図」(1868?70年頃の作品、五代目 尾上菊五郎に依頼され描いたもの。個人蔵) 幕末から絵日記をつけ始めたようで、亡くなる1か月前のものまで残っている[2]。20年も書いたが発見されているのは合わせて4年分である[3]。書かれた人の似顔絵が似ているばかりでなく、ありとあらゆることを記録し、金の支払いから、画料、毎日の天候まで記し、気象庁でも毎日の天気の記録は明治14年(1881年)からであるから、彼の記録は貴重である[4]。
独立
明治の暁斎「花鳥図」(1881年の第2回内国勧業博覧会に「枯木寒鴉図」と同時出展。東京国立博物館蔵)