河野高明
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 河野 高明 Takaaki KOUNO
基本情報
名前河野 高明
生年月日 (1940-01-04)
1940年1月4日
没年月日 (2010-04-22) 2010年4月22日(70歳没)
身長162 cm (5 ft 4 in)
体重60 kg (132 lb)
出身地神奈川県横浜市
経歴
日本プロゴルフ殿堂 殿堂表彰者
選出年2017年
選出部門レジェンド
2017年2月13日現在
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河野 高明(こうの たかあき、1940年1月4日 - 2010年4月22日)は、神奈川県横浜市出身の元プロゴルファー
人物

子供の頃はいつも人の陰に隠れていて、小学校の運動会ではいつも最下位であったが、負けん気だけは強く、いつも最後まで歯を食いしばって走っていた[1]

横浜市立保土ヶ谷中学校卒業後、父・安蔵が支配人を務めていた縁から程ヶ谷カントリー倶楽部に入り[1]キャディをしながらゴルフを修業[2]小野光一に師事し、1959年に19歳でプロテストに合格[2] [1]。弟の光隆日本プロを連覇(1965年1966年)するなど先に大きく羽ばたいたため、兄の高明はその陰に隠れた形となっていたが、1967年関東オープンで初優勝を飾ったのを機に急成長[2]。同年の日本シリーズでは初日にいきなり6アンダー67のコースレコード[3]を樹立し、2位の橘田規に4打のリードを奪うと2日目も70で、71の橘田との差を更に一つ広げた[4]。3日目にはリードが7打差と開き、最終日も手堅く72でまとめ大会新記録の9アンダー281で優勝[4]。一昨年の杉原輝雄と同じ2位に1打差の圧勝であり、50万円アップした優勝賞金150万円を獲得[4]。4位の鈴村照男愛知学院大学出身で、シリーズ初登場の学士プロであった[4]

1968年にはブラジルオープンで海外初制覇も果たし、2位には細石憲二が入って日本人ワンツーとなった[5]日本オープン・日本シリーズの2冠も達成し、大会予選を通過できなかったが、推薦で出場した[1]日本オープンは最終日に崩れるも、冷や汗の逃げ切り初優勝[6]を飾る。予選ラウンド2日間で通算10アンダーとし、2位に7打差を付けたが、36ホールの最終日に雨でショットが乱れたところを鷹巣南雄、ブルース・デブリン( オーストラリア)に追いかけられ、31ホール目の午後の14番でボギーとして一旦は鷹巣に並ばれた[1]。17番で46を沈めるバーディーで、ボギーとした鷹巣を突き放し、最終的には1打差で逃げ切った[1]。日本シリーズは大阪よみうりCCでの初日こそ初出場であった地元関西の松田司郎が河野を1打リードして首位に立ったが、2日目は逆に河野が松田を1打抑えてトップに立つ[7]。東京に舞台を移した3日目には2位以下に12打差を付け[1]、71の河野に対して松田がベストスコア70をマークしてピタリと並び、最終日も2人の争いは激烈となる[7]。首位に並んだ松田とのマッチレースになり、松田が4番でダブルボギーを叩いて流れが来る[1]。アウトを終わって河野が3打リードしていたが、松田も盛り返して15番で1打差に迫るも、河野は17番ロングホールで2オンに成功[7]。バーディーを奪って松田を振り切り、大会史上初の2連覇を達成[7]し、この2つの日本タイトルで、翌1969年マスターズへの招待が舞い込む[1]

同年から1972年まで5年連続でワールドカップ日本代表に選出される。1968年は細石とのペアでニール・コールズ&バーナード・ハント( イングランド)、ジミー・キンセラ&クリスティ・オコナー( アイルランド)と並ぶ10位タイであった。1969年には安田春雄とペアを組み、団体でオービル・ムーディ&リー・トレビノ アメリカ合衆国)に次ぎ、ロベルト・デ・ビセンツォ&レオポルド・ルイス( アルゼンチン)、謝永郁&許渓山( 中華民国)、シャクリー・オンシャム&スシン・スワナポン( タイ)、ベン・アルダ&エレウテリオ・ニーバル( フィリピン)、アンヘル・ガジャルド&ラモン・ソタ( スペイン)を抑えての2位と健闘。個人でもトレビノ、ビセンツォ、謝永、ムーディ、オンシャム、アルダに次ぐ7位に入る。1970年も安田とベアを組み、ジャン・ガライアルド&バーナード・パスカシオ( フランス)と並ぶ10位タイであった。

1972年の第20回大会では初選出の村上隆[8]とペアを組み、団体で呂良煥&謝敏男(中華民国)に次ぎ、ティーニー・ブリッツ&ゲーリー・プレーヤー 南アフリカ共和国)、ブルース・クランプトン&ビル・ダンク(オーストラリア)、ジム・ジェイミーソン&トム・ワイスコフ(アメリカ)を抑えての2位、個人でも謝敏男に次ぎ、ブリッツ、クランプトン、呂良煥を抑えての2位と好成績を挙げる[2]。大会初日はイーブンパーの71にまとめ、日本は1アンダー、141で、団体でも台湾とベルギーに3打差をつけて首位に立った[8]。ワールドカップでの首位は優勝した1957年以来で、2度目の快挙に向けて絶好のスタートを切ったが、翌日は悪天候で中止となり、大会は54ホールに短縮されることになった[8]。仕切り直しの2日目はアウトで2アンダー、33をマークするが、インでは3ボギーと崩れてこの日は1オーバーの72[8]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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