凡例河野通清
時代平安時代末期
生誕不詳
死没養和元年8月(1181年)
別名新大夫、四郎(通称)、河野介
戒名光明院予州太守通智清大居士
墓所愛媛県松山市小川の河野通清供養塔
官位伊予権介
氏族河野氏
父母父:河野親清、母:河野親経
河野 通清(かわの みちきよ)は、平安時代末期の伊予国風早郡河野郷の武将・豪族。河野氏は伊予第一の名族で国造の末裔・越智氏の流れを汲むという。 父・親清は子供ができず、このままでは再度河野家が絶えてしまう虞があった。そこで、親清の妻(親経の娘)が加護を得ようと、三島明神に参拝して祈願した直後に男子を身篭った。これが通清である。このことから、彼は神に「通」じた息子とされ、これより以後の河野氏全当主が代々「通」の通字を用いることの先例となったと伝えられる。また、三島明神はこの先河野家は16代続くと予言していたようである。実際、河野家は、通清以降晴通まで16代続いたといわれ、17代通宣からその力は衰退していったといわれるが、この16代の数字が、大山祇神社の中に鎮座する、17社、16皇子のことだといわれている。 治承4年(1180年)8月に源頼朝が打倒平氏の兵を挙げると、通清も挙兵して平維盛の目代を討ち、伊予を完全に支配圏に置いた。 しかし治承5年(1181年)、平氏方の田口成良と備後の奴可入道西寂
エピソード
伊予河野氏の蜂起
系譜
父:河野親清
母:河野親経
妻:不詳
男子:河野通信
男子:甲曽通経
男子:河野通孝
関連項目
伊予河野氏の蜂起
大通智勝仏
表
話
編
歴
伊予河野氏第22代当主(????年 - 1181年)
玉澄
益男
真勝
深躬
息村
息利
息方
好方
好峯
安国
安躬
元興
元家
家時
為世
為時
時孝
為綱
親孝
親経
親清
通清
通信
通久
通継
通有
通盛
通朝
通堯
通義
通之
持通(通久)
教通(通直)
通春
通宣(刑部大輔)
通直(弾正少弼)
通政(晴通)
通宣(左京大夫)
通直(伊予守)
通軌 | 断絶