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こうの あきたけ
河野 秋武
『雷撃隊出動』(1944年)
別名義山崎 進蔵
生年月日 (1911-10-08) 1911年10月8日
没年月日 (1978-03-17) 1978年3月17日(66歳没)
出生地 日本、長崎県南高来郡安中村新港
(現・長崎県島原市)
死没地 日本、静岡県伊東市
職業俳優
ジャンル映画・テレビドラマ
活動期間1933年 - 1978年
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河野 秋武(こうの あきたけ、1911年〈明治44年〉10月8日 - 1978年〈昭和53年〉3月17日)は、日本の俳優。旧芸名は山崎 進蔵。 長崎県南高来郡安中村新港(現在の島原市)の生まれ。父は公務員で、六人兄弟の次男として生まれる。県立島原中学(現長崎県立島原高等学校)から東京物理学校(現東京理科大学)に進学するが1930年(昭和5年)11月に中退、1931年(昭和6年)11月に前進座のプロレタリア演劇研究所に入ったのち、前進座の座員として舞台に立つ一方、1933年(昭和8年)に前進座ユニット出演の映画『段七しぐれ』に顔出し出演する。 1939年(昭和14年)に応召、1940年(昭和15年)8月に除隊し前進座に復帰。1942年(昭和17年)3月に退団して東宝演劇研究会に参加する。同年『ハワイ・マレー沖海戦』に出演、1943年(昭和18年)から東宝専属で映画を主な活動の場にする。黒澤明のデビュー作『姿三四郎』、『一番美しく』、『続姿三四郎』、『虎の尾を踏む男達』、『わが青春に悔なし』など立て続けに起用される。特に『わが青春に悔なし』では、時流に乗って検事となり、権力を行使する残忍な悪役を演じる。以降は、痩身で神経質な役で性格俳優として評価を確立。1947年(昭和22年)のオムニバス映画『四つの恋の物語』の第4話「愛のサーカス」では愛人を曲芸の最中に殺害する空中ぶらんこ乗りを主演、また谷口千吉監督の『銀嶺の果て』では悪役から一転し、三船敏郎扮する強盗犯に逃亡の道案内を強要される登山家を演じ、その知性的な演技によりたちまち脚光を浴びる。しかし、この頃に折からの東宝争議のために河野は、俳優の嵯峨善兵や監督の山本薩夫らと共に自発的に東宝を退社。 フリーの俳優として、以降は松竹・大映・東映・日活の映画にそれぞれ出演する。テレビドラマへも初期から活躍し、『私は貝になりたい』や『白い巨塔』など、多くの作品に出演した。映画は1973年(昭和48年)の『宮本武蔵』が最後の出演。その後は胃潰瘍で伊東市内の病院に入院していたが、1978年(昭和53年)3月17日午後1時52分に脳血栓のため死去した。66歳没。
来歴・人物
出演歴
映画
段七しぐれ (1933年、新興キネマ)
人情紙風船 (1937年、P.C.L.)
阿部一族 (1938年、東宝)
ハワイ・マレー沖海戦 (1942年、東宝) - 斎藤班長[1]
姿三四郎 (1943年、東宝) - 壇義麿
一番美しく (1944年、東宝) - 鼓笛隊の先生
加藤隼戦闘隊 (1944年、東宝)
雷撃隊出動 (1944年、東宝) - 村上
四つの結婚 (1944年、東宝)
續姿三四郎 (1945年、東宝) - 桧垣源三郎
北の三人 (1945年、東宝)
虎の尾を踏む男達 (1945年、東宝) - 伊勢義盛
わが青春に悔なし (1947年、東宝) - 糸川
四つの恋の物語 第4話「愛のサーカス」(1947年、東宝) - 富蔵
銀嶺の果て (1947年、東宝) - 本田
名探偵ヒロシ君
わが愛は山の彼方に(1948年、東宝)
また逢う日まで (1950年、東宝)
日本戦歿学生の手記 きけ、わだつみの声 (1950年、東横映画) - 河西一等兵
黎明八月十五日 (1952年、東映) - 吉田順吉
ひめゆりの塔 (1953年、東映) - 仲栄間先生
花の生涯 彦根篇 江戸篇 (1953年、松竹) - 多田一郎
山椒大夫 (1954年、大映) - 太郎
忠臣蔵 花の巻・雪の巻(1954年、松竹)- 原惣右衛門
新・平家物語 (1955年、大映) - 平六
六人の暗殺者(1955年、日活) - 中岡慎太郎
続・警察日記(1955年、日活) - 久松静児 - 斎藤巡査
姉妹 (1955年、中央映画)- 近藤健作
赤穂浪士 天の巻 地の巻(1956年、東映) - 目玉の金助
幕末太陽傳 (1957年、日活) - 鬼島又兵衛
川上哲治物語 背番号16 (1957年、日活) - 川上哲治の父
点と線 (1958年、東映) - 土屋刑事