logo川越城
(埼玉県)
本丸御殿(現存)
別名河越城、初雁城、霧隠城
城郭構造平山城
天守構造なし
築城主太田道真、道灌父子
築城年1457年(長禄元年)
主な改修者大道寺政繁、松平信綱、松平斉典
主な城主扇谷上杉氏、後北条氏、酒井氏、
堀田氏、結城松平家、他
廃城年1869年(明治2年)
遺構堀・土塁・御殿の一部・移築物3棟
指定文化財埼玉県有形文化財(本丸御殿)
埼玉県史跡
位置.mw-parser-output .geo-default,.mw-parser-output .geo-dms,.mw-parser-output .geo-dec{display:inline}.mw-parser-output .geo-nondefault,.mw-parser-output .geo-multi-punct,.mw-parser-output .geo-inline-hidden{display:none}.mw-parser-output .longitude,.mw-parser-output .latitude{white-space:nowrap}北緯35度55分28.25秒 東経139度29分29.41秒 / 北緯35.9245139度 東経139.4915028度 / 35.9245139; 139.4915028 (川越城)
川越城(かわごえじょう)は、埼玉県川越市にあった日本の城。江戸時代には川越藩の藩庁が置かれた。別名、初雁城、霧隠城。関東七名城・日本100名城。通常、川越城の名称を表記する場合、中世については河越城、近世以降は川越城と表記されることが多い。 武蔵野台地の北東端に位置する平山城。1848年(嘉永元年)に建られた本丸御殿の一部が現存する(埼玉県有形文化財)。かつての城は、現在の初雁公園
概要
中世から近世にかけて改築がなされ規模を大きく変えた。藩政時代には、酒井忠勝・松平信綱(知恵伊豆)や柳沢吉保など、幕府の要職についた歴代藩主が多く、幕閣の老中数7名は全国でも最多の藩の1つであり、江戸時代中期までは「老中の居城」であった(中期以降は親藩)。
別名
初雁城
城内の三芳野神社に「初雁の杉」があった。毎年同じ時期に北から初雁が飛来し杉の真上で三声鳴き三度回って南に飛び去った、という故事による。太田道灌が川越城築城祝いで開いた宴の折も初雁が来て鳴いたことから道灌が「初雁城」と命名したとされる。3代目の初雁の杉が神社の社殿裏にある。
霧隠城
城内に「霧吹きの井戸」という井戸があり、普段は蓋をしておくが危急の際は蓋を開くと霧が城を隠したという伝承による。井戸は移築され、現在は市立博物館の前庭にある。
歴史・沿革
室町時代中世城郭の各部名称 @竪堀 A土塁 B連続竪堀 C堀切 D畝堀 E障子堀 F枡形虎口 G平虎口 H馬出 I土橋・木橋 J曲輪 K櫓台食い違い虎口例
室町幕府より関東の押さえとしておかれた鎌倉府は、代を重ねるごとに独立志向を強める鎌倉公方足利氏と、その補佐役でありながら、中央政権である室町幕府を支持する関東管領上杉氏との内部対立が生じていた。
そしてついに1454年(享徳3年)、第5代鎌倉公方足利成氏が関東管領上杉憲忠を謀殺した事をきっかけとして、関東を戦乱の世とした享徳の乱が勃発した。
鎌倉公方であった足利成氏は、自身が遠征中で不在となっていた本拠地・鎌倉を上杉氏援軍の今川範忠勢によって制圧されてしまう。足利成氏は鎌倉に戻るのを断念して下総国古河に拠点を構えた事から以後古河公方と呼ばれ、室町幕府の支持を得た上杉氏と関東を二分する争いになった。
武蔵国東部の低湿地帯は、上杉氏と古河公方の対立の最前線となったため、古河公方の勢力(古河城や関宿城・忍城など)に対抗する上杉氏の本拠地として、1457年(長禄元年)、扇谷上杉氏の上杉持朝は、家宰の太田道真、太田道灌父子に河越城(川越城)の築城を命じ、自ら城主となった。加えて、上杉持朝は南方の下総国との国境に江戸城も築城させ、道灌を城主とし、両城を軍事道路(後の川越街道)で結び、古河公方への防衛線を構築した。
河越城は武蔵野台地の北端の丘陵に位置し、東方の低地を睨んだ自然の要害に位置している、比高5?6mの平山城であった。城の北に赤間川(現新河岸川)が流れ、さらに北を入間川・越辺川などが流れて外堀の役割を果たす。城の南は遊女川(よながわ)の湿地帯であった。
道灌の築城方法は、「道灌がかり」という「連郭式縄張り」で、子城、中城、外城など独立した曲輪を連ね、周囲に高さ二間ほどの土塁を築く。そして曲輪の間には堀を巡らし、飛橋と呼ばれる橋で連結し、連結した入口には土橋、引き橋、食い違い虎口や横矢がかりなどの仕掛けを作ることで敵が侵入しても各曲輪にて防ぐ構造であった。
河越城の城郭はおよそ5万坪、8門8櫓を構えた。新編武蔵風土記稿によると本丸南西の20mの高台に富士見櫓を築いたのも道灌である。
なお、築城に際しては、太田道真主導説(北条五代記や永享記など)と太田道灌主導説(霊岩夜話や太田家記など)の2説ある。築城後、城の西に太田道真屋敷が、北西に太田道灌屋敷が築かれた。また、三芳野神社が祀られた天神郭も造られた。
太田道灌は享徳の乱の収束に尽力し、1482年(文明14年)に室町幕府と古河公方は和睦したが、名声を高めた道灌を恐れた主君扇谷上杉定正(持朝の子)は、道灌を暗殺してしまう。
これにより太田家は扇谷家と離反、上杉氏内部も山内家と扇谷家の内部分裂と抗争を繰り返し、その内部抗争に古河公方が介入する、泥沼の長享の乱となる。
1497年(明応6年)には、扇谷上杉氏の当主・上杉朝良が居城する河越城に対抗して、山内上杉氏当主・上杉顕定が入間川対岸の旧河越館に「上戸陣」を構築し、古河公方の足利政氏を招いて、7年間も睨みあった。 長享の乱の頃、駿河国今川氏に仕えていた北条早雲は、関東の争乱に乗じて、瞬く間に伊豆国から相模国を制圧した。 早雲から1518年に家督を譲り受けた嫡男北条氏綱は、武蔵国征圧のため、1524年(大永4年)に扇谷上杉朝興の江戸城を収め落とし、翌年には扇谷方の岩槻城を占領して、武蔵の内陸に食い込んだ。 上杉朝興は河越に逃れて形勢を建て直し、蕨城や岩槻城で攻防を繰り広げた(以後、河越夜戦までを総じて河越城の戦いという)。
上杉時代の城主:(扇谷)上杉持朝、上杉政真、上杉定正、上杉朝良、上杉朝興、上杉朝定
戦国時代