河西 太一郎(かわにし たいちろう、1895年3月18日[1] - 1986年8月26日)は、日本の経済学者。立教大学名誉教授、立教大学元経済学部長、学校法人立教学院元理事長[2]。高崎市立短期大学(現・高崎経済大学)初代学長[3][4]。 1895年3月、大阪府和泉市松尾寺町で河西仲次郎の四男として生まれる[2]。 1912年3月、大阪府立堺中学校卒業、1917年7月、第一高等学校独法科卒業し、同年9月、東京帝国大学法学部政治学科入学。1920年9月、東京帝国大学法学部政治学科卒業。同年10月、大原社会問題研究所助手に就任。同年11月、安藤文子と結婚する[2]。 1923年3月、大原社会問題研究所の財政的な問題から規模縮小のために、同僚の林要らとともに同研究所を離れる[2]。同年4月、立教大学商学部教授に就任。前月に発足した立教大学経済学研究会は、河西を教授に迎え、門下に40余名の会員を擁した[2]。 1932年9月に、杉浦貞二郎の後任として木村重治が立教大学学長に就任し、経済学部長を兼任すると、経済学科長に河西太一郎、商学科長に須藤吉之祐が着任した[5]。1941年5月、立教大学経済学部長に就任する[2]。1943年7月、立教大学教授および経済学部長を辞任し、1944年5月、調査研究動員本部業務局次長に就任。1945年5月、同次長を辞職[2]。 1946年1月、立教大学経済学部教授会および学生の要望により、立教大学教授に再任し、同年5月、同大学経済学部長に就き、同経済学部の再建に貢献する[2]。 1949年8月、財団法人立教学院理事に就任し、立教大学の経営に尽力。1950年4月、立教大学学生人事部長を兼任[2]。立教大学体育会硬式庭球部長も長く務めた[6]。1952年、高崎市立短期大学学長兼任[3]。 1953年1月、立教大学経済学博士となり、1955年6月、文部省大学設置委員会常任委員に就任[2]。1959年6月、立教大学経済学部長を辞任[2]。 1970年10月から翌年8月まで、立教学院理事長を務めた[7]。同年、定年を迎え、立教大学名誉教授に就任。
人物・経歴
主な著書
『農業問題研究』改造社 1926年
『マルクス主義に於ける農業理論の発展』研進社 1946年
主な訳書
『社会主義と農業問題』ミルユーティン 同人社書店 1925年
『農業の社会化』カアル・カウツキイ、カアル・マルヒオニニ 訳編 同人社書店 1925年
『土地問題論』W.リープクネヒト 改造社 1928年
脚注^ 『人事興信録 第25版 上』(人事興信所、1969年)か283頁
^ a b c d e f g h i j k 「 ⇒河西太一郎先生略歴および著書 (河西太一郎先生在職三十五年記念論文集)」『立教經濟學研究』第13巻第4号、立教大学経済学部、1960年2月、805-807頁。
^ a b 開学!高崎経済大学
^ 高崎市 『第65回高崎経済大学の設立』
先代
八代斌助立教学院理事長
1970年 - 1971年次代
松崎一雄
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