河西 俊雄1955年撮影
基本情報
国籍 日本
出身地兵庫県姫路市
生年月日 (1920-04-25) 1920年4月25日
没年月日 (2007-06-25) 2007年6月25日(87歳没)
身長
体重164 cm
56 kg
選手情報
投球・打席右投右打
ポジション外野手、二塁手
プロ入り1946年
初出場1946年
最終出場1955年
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)
選手歴
兵庫県立明石中学校 (旧制)
明治大学 (旧制)
グレートリング
南海ホークス (1946 - 1949)
大阪タイガース (1950 - 1955)
監督・コーチ歴
大阪タイガース
阪神タイガース (1953 - 1957, 1962)
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河西 俊雄(かわにし としお、1920年4月25日 - 2007年6月25日)は、兵庫県姫路市出身のプロ野球選手(外野手、内野手)・コーチ・スカウト。目次 明石中学校(旧制)から明治大学を経て、1946年にグレートリングに入団。入団初年度の1946年は86試合に出場し39盗塁を記録し盗塁王を獲得、7月15日の対ゴールドスター戦ではNPB史上初の1試合6安打を記録[1][2]。新人の盗塁王はこのあと2001年に赤星憲広(盗塁は河西と同じ39)が記録するまでは唯一で[3]、2020年シーズン終了時点でも近本光司(2019年に獲得)を含めた3人しかいない。また、同年はリーグ最多犠打も記録している。1947年は、107試合に出場し53盗塁で2年連続で盗塁王を獲得した。1948年は、自己最多の138試合に出場し66盗塁で3年連続の盗塁王を獲得している。1949年も100試合に出場したが、盗塁数は23に留まり盗塁王にはなれなかった。 1950年に大阪タイガースに移籍。移籍初年度の1950年はレギュラーとして113試合に出場し、盗塁数は前年と同数の23を記録した。1951年からは、渡辺博之が外野手に定着したことから主に二塁手を守る。同年もレギュラーとして出場。リーグ最多犠打を記録している。1952年も二塁手として出場することが多かったが、出場試合数は98試合と6年ぶりに二桁になった。1953年から二軍コーチを兼任することとなり、一軍の出場試合数はわずか8試合となった。1954年は二軍(1954年から1956年まで阪神ジャガース)の助監督を兼任し、一軍での試合出場はなかった。1955年から、二軍監督を兼任した。同年は、2年ぶりに一軍出場を記録したが7試合の出場に留まり、同年を持って現役を引退した。1956年まで二軍監督を務め、1957年は二軍コーチを務めた。1958年からスカウトに転身。スカウトに転身して最初に担当したのは、中京商高の本間勝と柳井高の遠井吾郎[4]。1961年は、関西大の藤井栄治を担当している。1962年に一年のみコーチを務めるが、その後はまたスカウトで、藤田平・江夏豊・山本和行・掛布雅之といった大物選手の担当を務めた。1976年に退職。 1977年から近鉄バファローズのスカウト部長に就任し、大石大二郎・金村義明・小野和義・阿波野秀幸・赤堀元之・野茂英雄・中村紀洋・高村祐・吉井理人らを担当した。
1 来歴
2 選手としての特徴・人物
3 詳細情報
3.1 年度別打撃成績
3.2 タイトル
3.3 記録
3.4 背番号
4 脚注
5 参考文献
6 関連項目
来歴