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かわづ あきとし
河津 秋敏
ロンドンでのファイナルファンタジーXII発売記念イベントにて(2007年)
生誕 (1962-11-05) 1962年11月5日(61歳)
日本 熊本県阿蘇郡小国町[1]
出身校東京工業大学(中途退学)
職業ゲームクリエイター
活動期間1986年 -
取締役会スクウェア・エニックス (2004 - 2007)
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河津 秋敏(かわづ あきとし、1962年11月5日 - )は、日本のゲームクリエイター、ゲームプロデューサー。株式会社スクウェア・エニックス第一開発事業本部所属。 熊本県立熊本高等学校卒業、東京工業大学理学部在学中にソニーから内定通知を受け入社予定だったが、事情によりやむを得ず中退[2]。のちの1986年[3]、スクウェアのアルバイト採用試験に応募した際、前日に採用が締め切られていたことを告げられるも、結果として採用される[4]。入社直後、マスターアップ間際の『ハイウェイスター』のデータ作成を手伝う。社員となり『ファイナルファンタジー』、『ファイナルファンタジーII』の開発に携わった[2]のち、当時の社長宮本雅史から新発売の携帯ゲーム機ゲームボーイのソフト開発を任される[5]。 宮本は当時爆発的な人気を誇っていた『テトリス』のような「落ちものゲー」の開発を望んでいたが[6]、河津は石井浩一と同じく、「ユーザーはRPGを望んでいる」と考えた。そこであえてRPGを開発しようと試み、『魔界塔士 Sa・Ga』を世に送り出し、スクウェア初のミリオンヒットを飛ばす。以降『時空の覇者 Sa・Ga3 [完結編]』を除く全ての『サガ』シリーズの開発に関わり、『サガ』の生みの親として広く知られる。 2002年ゲームデザイナーズ・スタジオの代表に就任。前任天堂社長山内溥の私設ファンド「ファンドキュー」からの資金提供を受けゲームキューブとゲームボーイアドバンスの連動ソフト『ファイナルファンタジー・クリスタルクロニクル』を開発した。2004年6月よりスクウェア・エニックスの取締役に就任。引き続き第2開発事業部長を兼務していた。 元々は『FFIII』のリメイク企画に大々的に関わっていたが、2005年8月以降から、病気療養中の松野泰己に代わり、エグゼクティブプロデューサーとして『ファイナルファンタジーXII』の製作統括の任にピンチヒッターとして当たっていた。その後、ファイナルファンタジー・クリスタルクロニクルシリーズの製作指揮と『ファイナルファンタジーXII』の製作統括の任から引き続いてイヴァリースアライアンス作品の製作統括を行った。 2007年5月23日に取締役を退任、エグゼクティブ・プロデューサーとして、開発に専念する人事を発表した。 高校時代はインベーダーゲームに熱中[7]、大学の頃からRPGフリークであり、TRPGやボードのシミュレーションゲームをよく触れ込んでいた。
来歴
人物