この項目では、北海道十勝地方の郡について説明しています。古代中国の郡については「河東郡 (中国)」を、大韓民国・慶尚南道の郡については「河東郡 (慶尚南道)」をご覧ください。
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令制国一覧 > 北海道 (令制) > 十勝国 > 河東郡
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北海道河東郡の位置(1.音更町 2.士幌町 3.上士幌町 4.鹿追町 薄黄:後に他郡に編入された区域)
河東郡(かとうぐん)は、北海道(十勝国)十勝総合振興局の郡。
人口58,284人、面積1,822.32km²、人口密度32人/km²。(2024年4月30日、住民基本台帳人口)
以下の4町を含む。 1879年(明治12年)に行政区画として発足した当時の郡域は、上記4町から音更町の一部(長流枝・長流枝幹線ほか概ね士幌川流域)、士幌町の一部(下居辺および概ね士幌川流域)、上士幌町の一部(概ね居辺東)[1]を除き、河西郡芽室町の一部(概ね十勝川以北)、上川郡清水町の一部(美蔓および御影の一部)を加えた区域にあたる。 江戸時代の河東郡域は、松前藩によって開かれたトカチ場所に含まれた。江戸時代後期、河東郡域は東蝦夷地に属していた。国防のため寛政11年河東郡域は天領とされた。文政4年には一旦松前藩領に復したものの、安政2年再び天領となり仙台藩が警固をおこない、同6年の6藩分領以降は仙台藩領となった。戊辰戦争(箱館戦争)終結直後の1869年、大宝律令の国郡里制を踏襲して河東郡が置かれた。
音更町(おとふけちょう)
士幌町(しほろちょう)
上士幌町(かみしほろちょう)
鹿追町(しかおいちょう)
郡域
歴史
郡発足までの沿革
郡発足以降の沿革北海道一・二級町村制施行時の河東郡の町村(14.音更村 青:合併を経ていない町村 水色:分立して現存する町村 24.川上村 25.上士幌村 26.鹿追村)
明治2年
8月15日(1869年9月20日) - 北海道で国郡里制が施行され、十勝国および河東郡が設置される。開拓使が管轄。
8月28日(1869年10月3日) - 静岡藩の領地となる(北海道の分領支配)。
明治4年8月20日(1871年10月4日) - 廃藩置県により再び開拓使の管轄となる。
明治5年
4月9日(1872年5月15日) - 全国一律に戸長・副戸長を設置(大区小区制)。
10月10日(1872年11月10日) - 4月に設置された区を大区と改称し、その下に旧来の町村をいくつかまとめて小区を設置(大区小区制)。
明治9年(1876年)9月 - 従来開拓使において随意定めた大小区画を廃し、新たに全道を30の大区に分ち、大区の下に166の小区を設けた。
明治9年の大区小区
第23大区
6小区 : 音更村、然別村、東士狩村、西士狩村、美蔓村
明治12年(1879年)7月23日 - 郡区町村編制法の北海道での施行により、行政区画としての河東郡が発足。