河川防衛艦隊
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河川防衛艦隊
River Defense Fleet
活動期間
1862年3月 - 6月
国籍 アメリカ連合国
軍種 アメリカ連合国陸軍
主な戦歴ジャクソン砦・セントフィリップ砦の戦い
プラム・ポイント・ベンドの戦い(英語版)
メンフィスの戦い
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南北戦争中のルイジアナ州とミシシッピ州南部を描いた地図[1]

河川防衛艦隊(かせんぼうえいかんたい、英語: River Defense Fleet)は、南北戦争初期において、アメリカ連合国(南部連合)がニューオーリンズ防衛のため14隻の船舶を以て編成した部隊である。所属船舶はいずれも連合国陸軍省(英語版)の命令によって接収された商船ないし曳船で、1門ないし2門の火砲、エンジンを保護する隔壁、衝角として用いることができる頑丈な船首などを追加することで、軍艦に改装されていた。名目上は連合国陸軍の一部隊とされていたものの、各船舶に乗り込んだ士官全員と水兵の大部分は民間人だった。艦隊のうち、一部はミシシッピ川南部に留まり、一部は合衆国軍(北軍)の侵攻を食い止めるべく北部へと派遣された。

南部に残った艦隊は、ジャクソン砦・セントフィリップ砦の戦いに参加した。また、北部に派遣された艦隊は、プラム・ポイント・ベンドの戦い(英語版)およびメンフィスの戦いに参加した。河川防衛艦隊が北軍船舶に対抗できたのは非常に限られた状況下においてのみで、大抵の場合は圧倒されていた。1862年半ばまでに、北軍による撃沈、あるいは乗組員による放棄によって、船舶は数を減らし続け、河川防衛艦隊は壊滅した。
結成

1861年4月に内戦が勃発した直後、合衆国を離脱した各州は、合衆国大統領エイブラハム・リンカーンによる海上封鎖宣言への対応を迫られた。また、同時に北軍総司令官ウィンフィールド・スコット将軍が提唱したアナコンダ計画(英語版)によってもたらされる脅威も考慮に入れる必要があった。この計画において、北軍はミシシッピ川を下って進軍し、最終的にニューオーリンズの占領を目指すことが想定されていた。アナコンダ計画が連邦政府の正式な戦略の大枠として採用されることはなかったが(スコットの後任者らはいずれも計画を却下した)、その存在自体が連合国大統領ジェファーソン・デイヴィスおよび政府高官らにミシシッピ川の重要性を強く意識させることとなった。この重要な河川を防衛するために、政府だけではなく民間からも多数の提案が成された。この時に提出されたアイデアの一つに、2人の河川船舶船長、ジェームズ・E・モントゴメリー(James E. Montgomery)およびJ・H・タウンゼント(J. H. Townsend)によって考案されたものがあった。

2人の船長のアイデアは、適当な大きさと速度を兼ね備えた船舶を利用し、切断した鉄道用軌条で船首を強化して衝角として用いることができるようにするというものだった。また、機関部は内部隔壁によって保護することとされた。武装は各船長の希望に従って1門ないし2門の砲のみを搭載するものとされた。北軍の装甲砲艦を相手に最後まで戦い抜くことは当初から期待されておらず、低速な砲艦に狙いを絞り、敵の船体の特に脆弱な箇所への衝角攻撃を試みることとされていた。各船舶の船長は、ニューオーリンズで働いていた経験豊富な河川船舶乗組員の中からモントゴメリーとタウンゼントによって選抜され、その後に船長らが各船舶の乗組員を雇用した[2]

モンゴメリーとタウンゼントは、陸軍省および海軍省を迂回し、ミシシッピ州代議員団に加え、デイヴィス大統領の個人的な信任を得ていたレオニダス・ポーク陸軍少将から、計画の承認を取り付けた。彼らの政治的な試みは成功し、議会は計画を承認した上、タウンゼントが改装作業の監督のためにニューオリンズに戻るよりも前に、1,000,000ドルの予算を受け取っている[3]
商船の改装

予算案の成立に続いて、ジュダ・ベンジャミン陸軍長官はニューオーリンズの軍管区司令官マンスフィールド・ラヴェル(英語版)陸軍少将に宛てて電報を送り、軍事転用のために14隻の汽船を接収せよと命じた。これはラヴェルによる河川防衛艦隊への最初の関与であり、彼はすぐに最も執拗かつ苛烈な批評者となった。ラヴェルは艦隊が負った変則的な役割に反発し、「ミシシッピ川の14人の船長と水先案内人たちは、一旦仕事に手を付けたなら、何についても口出しを許しはするまい」(Fourteen Mississippi River captains and pilots will never agree about anything once they get underway.)と述べた[4]。ラヴェルは命令に従い、連合国政府の名の下に14隻の汽船を調達した。後に陸軍省の意図を汲んだラヴェルによって、このうち何隻かが別の船舶に入れ替えられたが、隻数自体は14隻を保った[5]

各船舶は、船首内をオークの無垢材で満たし、前方20フィート(6.1m)の外装をオーク材で板張りした上、これを厚さ1インチ(25mm)の切断された鉄道用軌条で覆うこととされた。エンジンは二重隔壁で防護された。内側の隔壁は、松梁材から成り、1辺12インチ(30cm)の正方形だった。外側の隔壁も同じ梁材から成り、6インチx12インチ(15x30cm)の長方形だった。 外側の隔壁は船首と同様、厚さ1インチ(25mm)の切断された鉄道用軌条で覆われていた[要出典]。これらの隔壁の間には22インチ(56cm)の隙間があり、圧縮された綿が詰め込まれていた。綿は装甲の構成において必ずしも重要な部分ではなかったものの、大衆の興味を引き、同種の装甲を採用した船舶は装甲艦(Ironclads)をもじって「装綿艦(英語版)」(Cottonclads)と通称されるようになった[6]

いわゆる装綿艦の改装のために、1862年3月16日から4月17日までの1ヶ月間が費やされた。同じ頃、偶然にもデヴィッド・ファラガット海軍大佐が率いる北軍艦隊が下流で集結し、ニューオーリンズ攻撃の準備を整えつつあった。河川防衛艦隊は、改装を終え次第アイランドNo.10およびメンフィスの防衛の援護に割り当てられる予定だったが、ラヴェルが陸軍省を説得し、完成した最初の6隻を自らの指揮下でニューオーリンズ近くに残すことを認めさせた。完成した最初の6隻は、ストーンウォール・ジャクソン(英語版)、ウォリアー(CSS Warrior)、ディファイアンス(CSS Defiance)、レゾリュート(CSS Resolute)、ジェネラル・ブレッキンリッジ(CSS General Breckinridge)、ジェネラル・ラヴェル(英語版)と命名された。この時までに、タウンゼントは艦隊を離れていた。モントゴメリーが北部に向かう集団の指揮官に選ばれた後、ニューオーリンズに留まる6隻の指揮は別の河川船舶船長ジョン・A・スティーブンソン(John A. Stephenson, 姓はStevensonと綴られることもある)が執ることとなった。残りの8隻、すなわちジェネラル・ブラッグ(英語版)、ジェネラル・スターリング・プライス(英語版)、ジェネラル・アール・ヴァン・ドーン(英語版)、カーネル・ラヴェル(英語版)、ジェネラル・ボーリガード(英語版)、ジェネラル・M・ジェフ・トンプソン(英語版)、リトル・レベル(英語版)、ジェネラル・サムター(英語版)は、いずれもメンフィスへと向かうこととされた。最後の装綿艦が完成したのは4月17日で、ジャクソン砦およびセントフィリップ砦への砲撃が始まるわずか1日前であった[7]

装綿艦はもっぱら衝角攻撃に用いることが想定されていたので、武装は最小限であり、各艦にはわずか1門ないし2門の砲のみが搭載されていた[8]。また、船長らは操砲訓練に時間を割くこともしなかった。そのため、陸軍の砲兵が各艦に配属されていたのだが、彼らは乗艦後も船長ではなく陸軍将校の指揮下に留まっており、指揮命令系統に混乱をきたす原因となった[9]


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