河合隼雄
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文化庁長官時に日本国政府から公表された肖像写真
生誕1928年6月23日
日本 兵庫県多紀郡篠山町
(現:丹波篠山市
死没 (2007-07-19) 2007年7月19日(79歳没)
日本 奈良県天理市(天理よろづ相談所病院)
国籍 日本
研究分野臨床心理学
分析心理学
日本文化
研究機関天理大学
京都大学
国際日本文化研究センター
出身校京都大学理学部
京都大学大学院文学研究科
カリフォルニア大学ロサンゼルス校心理学部大学院
主な業績箱庭療法
影響を
受けた人物カール・グスタフ・ユング
井筒俊彦
中村雄二郎など
影響を
与えた人物村上春樹など
主な受賞歴大佛次郎賞(1982年)
新潮学芸賞(1988年)
NHK放送文化賞(1996年)
朝日賞(1998年)
プロジェクト:人物伝
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河合 隼雄(かわい はやお、1928年昭和3年〉6月23日 - 2007年平成19年〉7月19日)は、日本の心理学者教育学博士(京都大学)。京都大学名誉教授国際日本文化研究センター名誉教授。文化功労者。元文化庁長官。国行政改革会議委員[1]。専門は分析心理学(ユング心理学)、臨床心理学日本文化

兵庫県多紀郡篠山町(現:丹波篠山市)出身。日本人として初めてユング研究所にてユング派分析家の資格を取得し、日本における分析心理学の普及・実践に貢献した。また、箱庭療法を日本へ初めて導入した。臨床心理学・分析心理学の立場から1988年に日本臨床心理士資格認定協会を設立し、臨床心理士の資格整備にも貢献した。霊長類学者の河合雅雄(三男)。7人兄弟で、長男が仁(外科医)、次男は公(篠山市西紀町の内科医)、3番目が雅雄、4番目が迪雄(歯科医)、5番目が隼雄、6番目が逸雄。一人は夭折している[1]
来歴・人物
幼少期・少年期

幼少期より、について考えていた。死ぬと全く何もなくなってしまう、ということが耐え難い恐怖であった。を閉じをふさぎ、死がどのようなものか知ろうとし、そのように知ろうとしている自分がなくなってしまうのだと気づき、慄然としたことがある[2]。兄・河合雅雄によると、幼少期の隼雄は繊細で泣き虫で、靴下がはけない、霜焼けがかゆい、好きな先生が転任だというような些細なことで泣いていた。一方で理屈で相手を言いくるめることが得意で逆に理屈で言い負かされたりすると相手を涙目で睨み返すようなことがあったが、同時に人の心を見透かす能力を備えており、母親は「隼雄はこわい」とつぶやくこともあった。このため家族内では「見抜き人」というあだ名を付けられていた。既成概念にとらわれず自分の頭で考え、ときに過激な発言もし、小学5年の時には「進化論的に言えば、天照大神は一番サルに近いということか」と言ったという[3]

感受性の強い時期に軍国主義が台頭、「日本精神」、「大和魂」などの洗礼を受けたため、「日本嫌悪症」が強くなり、文学芸術などは西洋一辺倒となり日本に関する文化にはすべて無関心に過ごす。その後、海外へ行く機会が多くなったことでようやく日本嫌悪症は治まり、老年期に至りようやく関心を持ち始める。しかし、だけは若い頃より関心があった。のちに世阿弥の『九位』に特に関心を示したが、心理療法家として人間の「心の成熟」を常に考えていたため興味をそそられたと述べている[4][要ページ番号]。
大学卒業から米国留学まで

旧制神戸工業専門学校を経て、1952年京都大学理学部数学科を卒業。京都大学大学院に籍を置き、心理学を学びつつ数学高校教諭として3年間勤務。学生時代には、雅雄がジークムント・フロイトの「夢判断」を読んで、「すごいショックを受け、夜眠れなかった」と言うと、「そうか?ショックなんか受けなかった。こんな面白い本はないと思うな」と答えた[3]

河合はロールシャッハテストから徐々に心理学に入っていき、ロールシャッハが彼の心理学の土台を築く上で大きな役割を果たしている。河合は約1000人にロールシャッハを施行した。

河合は、当時カリフォルニア大学ロサンゼルス校 (UCLA) の教授であり投影法に精通していたブルーノ・クロッパーのロールシャッハに関する本を読んだ際、間違いと思われる個所を見つけ、手紙で質問した。すると丁寧な返事が来て、河合の指摘が正しく、河合が初めてそれを指摘したと記されていた。この手紙を契機に二人の関係が始まり、後の河合の留学先にも影響を与えた。

英語で努力を積み重ねた後、1959年にフルブライト奨学生としてカリフォルニア大学ロサンゼルス校 (UCLA) へ留学し、クロッパーやJ・M・シュピーゲルマンの指導を受けた。


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