河合奈保子
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河合 奈保子
出生名河合 奈保子
かわい なほこ
別名金原 奈保子
かねはら なほこ
(結婚後の本名)
生誕 (1963-07-24)
1963年7月24日(60歳)
日本大阪府大阪市浪速区日本橋
出身地 日本・大阪府大阪市住之江区粉浜西
学歴明治大学付属中野高校定時制 卒業
ジャンル歌謡曲
ポップス
J-POP
職業元歌手
シンガーソングライター
アーティスト
作曲家
女優
活動期間1980年 - 1996年
レーベル日本コロムビア
roots maker records

河合 奈保子(かわい なおこ、1963年昭和38年〉7月24日[1] - )は、日本の女性・元アイドル歌手シンガーソングライターアーティスト作曲家女優。娘は元歌手のkaho。身長160センチメートル。血液型O型
人物

所属事務所は芸映プロダクション、レコード会社は日本コロムビアに所属していた[注釈 1]1980年代の歌手・アイドルの一人である。本名は「かわい なほこ」だが、芸名では「かわい なおこ」と読ませている。

シングル売上記録は『エスカレーション』『スマイル・フォー・ミー』『夏のヒロイン』『けんかをやめて』(オリコンチャート)の順。

歌以外にもピアノギターマンドリンシンセサイザーを演奏し、自作曲(作詞作曲)も発表した。雑誌グラビアアイドル水泳大会に登場していた。

1996年2月1日、記者会見にてヘアメイクアップアーティスト金原宜保との婚約を発表し同年2月6日に婚姻届を提出。その約半年後に産休と翌1997年の第一子出産を契機に、芸能活動を完全停止。夫との間に2児あり。このうち第二子のkahoは、2013年11月27日にソニー・ミュージックから『Every Hero/Strong Alone』でデビューし、音楽活動をしていた時期があった[2][注釈 2][3]

現在はオーストラリア在住。
略歴
デビューまで

大阪市住吉区(現・住之江区)出身。1963年7月24日、浪速区日本橋愛染橋病院において会社員の父親の長女として誕生(2400グラムの未熟児)。誕生時、両親は大阪府枚岡市(現:東大阪市)に居住していた。1歳時の8月に大阪府八尾市に引っ越し、2歳時の10月には東京都世田谷区に籍を移した[4]。3歳年下の妹がいる。

幼児のころ父親の職業に転勤が多く、幼稚園は東京都調布市の染地幼稚園、大阪府箕面市の箕面自由学園幼稚園、大阪府東大阪市の若宮保育園の3施設に通った[4]

大阪市立粉浜小学校入学と同時にピアノを習い始めた。大阪市立住吉第一中学校時代はフォークソングクラブに所属、中学2年の秋に日本テレビ系列『スター誕生!』に応募するが、この時は書類選考の段階で選外となる[4]1979年に私立大阪女子学園高等学校(現:大阪夕陽丘学園高等学校)に進学する。
アイドル歌手時代

1979年12月、芸映プロが自社の看板スターである西城秀樹の名を冠して主催した新人発掘コンテスト「HIDEKIの弟・妹募集オーディション」に応募。河合がオーディションを知ったのは締切の直前で、応募書類とデモテープを作成して送ったのは締切前日だった[4]。オーディションの選考過程も紙一重で、大本恭敬の「理想の声に近づく本」によれば、大阪の地区予選も一旦は最終審査に残らず、当初の定数1名に対して特別に2人目の代表として選出された(最初に選考され、河合と共に決勝大会に進んだもう一人の大阪代表は後の小林千絵)。翌1980年3月16日中野サンプラザで開催された決勝大会で優勝する。オーディション応募テープでは杏里の『オリビアを聴きながら』を、決勝大会では石野真子の『春ラ!ラ!ラ!』を歌った[4]

同月末に上京して歌レッスンを受けた後、1980年6月1日に『大きな森の小さなお家』で「西城秀樹の妹」という触れ込みとともに、アイドル歌手としてデビュー。この過程で明治大学付属中野高校定時制に編入し、後に卒業した。

なお、歌手デビュー当時のキャッチフレーズは「ほほえみさわやか カナリー・ガール」であった。2枚目のシングル『ヤング・ボーイ」がヒットとなり複数の音楽祭で新人賞を受賞する。

デビュー2年目の1981年10月5日16時頃、NHKホールでの『レッツゴーヤング』(NHK総合)のリハーサル中、誤って4m下の迫りに転落し第一腰椎圧迫骨折の重傷を負う。約2ヶ月間の療養の後、同年11月30日放送の『夜のヒットスタジオ』(フジテレビ)より復帰を果たす。同年12月31日第32回NHK紅白歌合戦に『スマイル・フォー・ミー』で初出場しトップバッターを務めた。翌年4月頃まで療養のためにコルセットを腰に装着して芸能活動を行う[5]。NHK紅白歌合戦に初出場した際は、転落事故からの復帰直後で、かつ事故現場のNHKホールだったが、本人によればリハーサルは恐怖感が先に立ったものの、本番の出番寸前に不安や緊張が全て消えたという[6]

1983年12月6日より盲腸の摘出手術で東京・渋谷病院に入院し、同年12月14日に退院した。12月18日まで休養し、翌12月19日の『夜のヒットスタジオ』で復帰を果たした。

歌唱中、マイクロフォンは左手で持つことが多かった[7]

ライブコンサートは1980年代の後半まで行われた[8]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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