この記事は検証可能な参考文献や出典が全く示されていないか、不十分です。出典を追加して記事の信頼性向上にご協力ください。(このテンプレートの使い方)
出典検索?: "河合保彦"
河合 保彦基本情報
国籍 日本
出身地岐阜県岐阜市
生年月日1933年10月3日
没年月日 (1984-09-11) 1984年9月11日(50歳没)
身長
体重177 cm
77 kg
選手情報
投球・打席右投右打
ポジション捕手、外野手
プロ入り1952年
初出場1952年
最終出場1967年
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)
選手歴
岐阜県立岐阜高等学校
名古屋ドラゴンズ
中日ドラゴンズ (1952 - 1958)
西鉄ライオンズ (1959 - 1967)
コーチ歴
西鉄ライオンズ (1970 - 1971)
この表についてこの表はテンプレートを用いて表示しています。編集方法はTemplate:Infobox baseball playerを参照してください。
河合 保彦(かわい やすひこ、1933年10月3日 - 1984年9月11日[1])は、岐阜県岐阜市出身のプロ野球選手(捕手)。 進学校・岐阜高では1年次の1949年、夏の甲子園にエース・花井悠と共に左翼手として出場。決勝に進出したが、佐々木信也を擁する湘南高と対戦するが3-5で逆転負けを喫し、準優勝にとどまる[2]。他のチームメートに中堅手の森和彦がいた。その後は捕手に転向するが、卒業後の1952年に名古屋ドラゴンズへ外野手として入団。入団後ほどなく再び捕手にコンバートされ、1年目から公式戦に出場した。なお中日球団で高卒新人捕手ながら一軍出場を果たした例は長らく河合が最後で、その次は67年後の2019年に石橋康太が達成するまで現れなかった[3]。 チーム名が「名古屋」から再び「中日」に戻った1954年には野口明の控え捕手として68試合に出場し、杉下茂らとバッテリーを組んでリーグ初優勝に貢献。同年の西鉄との日本シリーズでは3試合に先発マスクを被って12打数3安打を記録し、チーム初の日本一に力を添えた。1955年には野口の監督就任に伴い正捕手に昇格し、97試合に先発出場。1957年からは吉沢岳男と併用され出場機会が減少し、1959年に金銭トレードで西鉄ライオンズに移籍。西鉄では和田博実の控え捕手として過ごすが、1961年には和田の故障もあって88試合に先発、1962年も和田と併用され、同年の最終戦では豊田泰光に代わり四番打者として起用される。1963年の西鉄最後の優勝にも貢献し、巨人との日本シリーズにも2試合に出場して最終第7戦では1安打1打点を記録。1967年には後に捕手の二枚看板となる宮寺勝利・村上公康の台頭で出場試合が減少し、同年限りで現役を引退。 引退後は西鉄で二軍投手コーチ(1970年 - 1971年)を務めた後、福岡市で旅館を経営する傍ら、東海テレビ・東海ラジオ・九州朝日放送の解説者を務めた。
経歴