かわぐち えかい河口 慧海
1899年撮影
生誕 (1866-02-26) 1866年2月26日
日本
摂津国住吉郡堺山伏町
(現・大阪府堺市堺区北旅籠町西3丁1番)
死没 (1945-02-24) 1945年2月24日(78歳没)
死因脳溢血
墓地護国山尊重院天王寺(改葬前)
青山霊園(改葬後)
記念碑 日本
大阪府堺市堺区北旅籠町西3丁1番
国籍 日本
別名慧海仁広
セーラブ・ギャムツォ(自称)
セライ・アムチー(他称)
民族大和民族
出身校清学院
泉州第二番錦西小学校
同志社英学校(中退)
職業小学校教員(1888年 - 1889年)
僧(1889年 - 1921年)
仏教学者
探検家
団体大正大学
代表作『西蔵旅行記』
宗教仏教(黄檗宗)
親川口善吉 - 父
常子 - 母
1897年(明治30年)、日本を離れる直前の河口(32歳) 1902年(明治35年)11月、ダージリンにてチベットのラマ姿をした、チベット脱出後の河口(37歳) ネパール、カトマンズのボダナートにある河口訪問の記念碑
河口 慧海(かわぐち えかい、1866年2月26日(慶応2年1月12日) - 1945年(昭和20年)2月24日)は、日本の黄檗僧、仏教学者、探検家。幼名は定治郎。僧名は慧海仁広(えかいじんこう)。チベット名はセーラブ・ギャムツォ。チベットでの通称はセライ・アムチー。
日本や中国の漢語仏典に疑問をおぼえ、仏陀本来の教えの意味が分かる書物を求めて、梵語原典やチベット語訳仏典の入手を決意し、日本人として初めてチベットへの入国を果たした。
『西蔵旅行記』『在家仏教』をはじめとして数多くの著作を残し、慧文社から著作選集も出版されている。全ての著作が戦前に出版されたものであり、既に著作権が切れているため、国立国会図書館デジタルコレクションなどで当時の著作画像が閲覧できる他、『西蔵旅行記』などは青空文庫などでも公開されている。
経歴、母の名は常子、父の善吉は桶樽を家業とする職人であった。6歳から寺子屋清学院に通い、その後は明治時代初期に設置された泉州第二番錦西小学校へ通学した。12歳から家業を手伝いつつ、その傍らで14歳から夜学へ通学した。その後、藩儒であった土屋弘の塾へ通学して漢籍を5年間学び、米国宣教師から英語などの指導を受けた。1886年(明治19年)、京都の同志社英学校に通学を始めるが、学費困窮から退学し、同年堺市に戻り、再び土屋と米国人宣教師のもとで学んだ。
1888年(明治21年)に宿院小学校の教員となったが、更に学問を修めるべく翌年に上京、井上円了が東京市に創設した哲学館(東洋大学の前身)で外生として苦学した。1890年(明治23年)に黄檗宗の五百羅漢寺(当時は東京本所にあった)で得度し、同寺の住職となる。