河原純一
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河原隆一」とは別人です。

河原 純一中日時代
(2009年7月16日、阪神甲子園球場にて)
基本情報
国籍 日本
出身地神奈川県川崎市中原区
生年月日 (1973-01-22) 1973年1月22日(51歳)
身長
体重183 cm
74 kg
選手情報
投球・打席右投右打
ポジション投手
プロ入り1994年 ドラフト1位(逆指名)
初出場NPB / 1995年6月3日
最終出場NPB / 2011年11月17日(日本シリーズ第5戦)
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)
選手歴


神奈川県立川崎北高等学校

駒澤大学

読売ジャイアンツ (1995 - 2005)

西武ライオンズ (2005 - 2007)

中日ドラゴンズ (2009 - 2011)

愛媛マンダリンパイレーツ (2012 - 2015)

監督歴


愛媛マンダリンパイレーツ (2017 - 2021)

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■プロジェクト:野球選手  ■テンプレート

河原 純一(かわはら じゅんいち、1973年1月22日 - )は、東京都大田区生まれ、神奈川県川崎市中原区[1]出身の元プロ野球選手投手、右投右打)、監督2017年より2021年まで四国アイランドリーグplus愛媛マンダリンパイレーツの監督を務めた。
経歴
プロ入り前

小学4年生から野球を始め、中学時代にはエースピッチャーとなる[1]

神奈川県立川崎北高等学校では2年秋からエースになるも秋と春は初戦敗退[1]。3年時に出場した神奈川県大会でも初戦の岸根高校戦でKOされ降板するも延長12回に逆転サヨナラ勝ち[1]。準々決勝(対厚木高戦)で、後に横浜へ入団する川村丈夫と延長16回の投手戦の末に投げ勝ちベスト4まで進んだ[1]

卒業後は駒澤大学へ進学し、東都大学野球連盟の記録(当時)となる3度の最高殊勲選手に輝くなどエースとして活躍した[1]。同期生には高木浩之本間満がいる。リーグ通算53試合に登板し23勝10敗、防御率1.66、258奪三振。最優秀投手に2度、ベストナインに2度選ばれた。2年次は2学年先輩である田口昌徳とのバッテリーで鶴田泰との両輪で大学選手権優勝、4年次にも同大会を制して全日本アマチュア野球王座決定戦で社会人王者の日本通運を破って最高殊勲選手に選ばれ、日米大学野球でも最優秀投手となった。3年秋は明治神宮大会で優勝。また日米大学野球には2年から3年連続で日本代表に選出された[1]

1994年のプロ野球ドラフト会議において、読売ジャイアンツから1位指名(逆指名)を受け入団[1]福岡ダイエーホークスとの大争奪戦の末、交渉権を獲得しての入団だった。
巨人時代

プロ初登板・初先発となった1995年6月3日広島東洋カープ9回戦(東京ドーム)では、野村謙二郎に初回先頭打者本塁打を浴びた。しかしその後は、右肘側副靱帯断裂で離脱した桑田真澄をカバーする形で先発陣に入り、新人ながら8勝(そのうち阪神タイガースからは3試合連続完封を含む6勝)を挙げるなど活躍した。

また、シーズン中の7月に結婚した[2]が、その後、妻がかつて覚醒剤使用で逮捕・起訴猶予になっていたことが発覚し[2]、10月に協議離婚[2]。妊娠中の子どもは河原が認知することとした[2]が、その後に死産となった[3]

1996年は、開幕からローテーションに入ったが、未勝利のまま5月末に右肘痛で一軍登録を抹消された[1]。同時期、週刊誌にて元妻による暴露記事が掲載され、その年の春季キャンプで元妻を同宿させていたことが判明。チームの統制を乱す行為として球団から厳重注意と罰金200万円を受ける[4]。その後は一軍に復帰できず、チームはリーグ優勝したものの、自身の登板は9試合にとどまった。

1997年は主に中継ぎで登板し、6月5日の対中日ドラゴンズ戦で616日ぶりの勝利[1]、11日の対横浜ベイスターズ戦ではプロ初セーブを挙げた。最終成績は25試合で2勝1敗1セーブ・防御率2.60だった。

しかし1998年に肩の故障[5]・肘も手術[6]し、一軍・二軍ともに登板がないまま終わった。

長いリハビリを経て、1999年8月8日の対広島戦に先発登板し勝利投手となる。先発での勝利は1995年9月23日の対阪神戦以来で1461日ぶりであった。しかし好調は長続きできず、わずか8試合の登板で2勝に終わる。

2000年はシーズン途中から先発入りし、3試合の完封勝利など[7]順調かと思われたが、この年も途中で故障離脱となりチームはリーグ優勝・日本一になったが日本シリーズにはまたしても登板出来なかった。7試合の登板で4勝無敗という成績に終わった。

2001年はキャンプ中の右手小指骨折により出遅れたものの5月末からローテーションに加わり、ルーキーイヤーに次ぐ12試合に先発登板した。しかし、結果が残せず終盤はリリーフに廻り、2セーブを記録した。これが翌年のストッパー転向の足掛かりとなる。防御率は5点台で登板数も21試合だったが4勝4敗2セーブの成績を残した。

2002年から原辰徳が監督に就任すると抑え投手に抜擢される。開幕4試合目の中日戦に初セーブを記録し原監督の初勝利に貢献。以降、5月29日の対ヤクルトスワローズ戦でアレックス・ラミレスにサヨナラホームランを打たれ初めて救援に失敗するまで抜群の安定感を見せた。7月は9試合に登板して1勝7セーブ・防御率0.00を記録し[8]オールスターゲームにファン投票で選出された。一方当時の投球フォームが2段モーション(後に禁止となった)だったためか、走者を出した時の投球が極端に安定しない弱点が見え隠れしていた。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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