河原町
町丁
河原町団地[注 1]
.mw-parser-output .geo-default,.mw-parser-output .geo-dms,.mw-parser-output .geo-dec{display:inline}.mw-parser-output .geo-nondefault,.mw-parser-output .geo-multi-punct,.mw-parser-output .geo-inline-hidden{display:none}.mw-parser-output .longitude,.mw-parser-output .latitude{white-space:nowrap}北緯35度32分22秒 東経139度41分32秒 / 北緯35.53939度 東経139.69225度 / 35.53939; 139.69225
国 日本
都道府県 神奈川
市町村 川崎市
行政区幸区
人口情報(2024年(令和6年)3月31日現在[2])
人口6,105 人
世帯数3,461 世帯
面積([3])
0.163755621 km²
人口密度37281.16 人/km²
設置日1928年(昭和3年)
郵便番号212-0007[4]
市外局番044(川崎MA)[5]
ナンバープレート川崎
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河原町(かわらまち)は、神奈川県川崎市幸区の町名。丁目の設定がない単独町名。住居表示は未実施[6]。面積は16.4 ha[3]。 川崎駅の北方1kmあたり、多摩川のほど近くに位置する[7]。町域はほぼ全体が県営・市営・住宅供給公社の河原町団地によって占められており、また南端には貨物線跡地を転用した「さいわい緑道」が通っている[8]。
地理
歴史「戸手#歴史」も参照
当地は明治以前にはほとんどが沼地であったが[7]、1918年(大正7年)には日東製鋼の工場が設置され、5年後には同工場を東京製綱が買収した[9]。買収当時には敷地内も沼地だらけであったというが、関東大震災で東京・横浜の工場が壊滅したため、当地に工場を集約して生産を開始した[9]。
東京製綱の工場は1945年(昭和20年)の川崎大空襲で90%が破壊される被害を受けた[10]ものの、戦後は復興を果たしたが、1969年(昭和44年)に茨城県へと移転していった[11]。
工場跡地には最高14階建て、市営1,598戸、県営1,300戸、市住宅供給公社253戸、県住宅供給公社440戸と、あわせて3,591戸という河原町団地が作られた[1][12]。区域内には川崎市立河原町小学校も開校し、1977年(昭和52年)9月には児童数1,906人を記録した[13]が、1986年(昭和61年)時点ですでに住民の高齢化が指摘されており[14]、2007年(平成19年)には河原町の高齢化率が27.0%と、幸区全体より8ポイントも高くなっている[15]。河原町小学校は2006年に閉校となり[1][16]、跡地は特別養護老人ホームやデイサービスセンターなどへの転用がなされる計画である[17]。
なお、当地の南端を、川崎河岸駅への貨物線が通っており、砂利の採取や東京製綱の輸送に使われていたが、1970年(昭和45年)に廃止となり、跡地はさいわい緑道となっている[8]。 戸手の小字であった下河原耕地に由来する[18]。 2024年(令和6年)3月31日現在(川崎市発表)の世帯数と人口は以下の通りである[2]。 町丁世帯数人口 国勢調査による人口の推移。
地名の由来
沿革「戸手#沿革」も参照
1918年(大正7年)- 日東製鋼の工場が設置される。
1923年(大正12年)- 工場が東京製綱に買収される。
1927年(昭和2年)- 矢向駅 - 川崎河岸駅間の貨物線が開通[19]。
1928年(昭和3年)- 戸手字下河原耕地・字遠藤耕地、南河原字乙居村耕地から河原町が設置される[18]。
1969年(昭和44年)- 東京製綱の工場が移転。
1970年(昭和45年)- 川崎河岸駅への貨物線が廃止。
1971年(昭和46年)- 河原町団地1号棟が完成[20]。
1972年(昭和47年)
川崎市が政令指定都市に移行。川崎市幸区河原町となる。
川崎市立河原町小学校
1976年(昭和51年)- 一部が戸手4丁目となる[20]。
2006年(平成18年)- 川崎市立河原町小学校が閉校。
世帯数と人口
河原町3,461世帯6,105人
人口の変遷