日本の政治家河原 春作かわはら しゅんさく
生年月日 (1890-01-14) 1890年1月14日
出生地東京府(現・東京都)
没年月日 (1971-10-11) 1971年10月11日(81歳没)
出身校東京帝国大学法科大学
配偶者幾(中山秀三郎次女)
子女昭子(長女)、和子(次女)、雪子(三女)
親族作(父)、直文(長兄)、直武(次兄・斎藤清入夫)
枢密顧問官
在任期間1945年11月20日 - 1947年5月2日
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河原春作
河原 春作(かわはら しゅんさく、1890年(明治23年)1月14日[1] - 1971年(昭和46年)10月11日)は大正時代から昭和時代にかけての日本の文部官僚、教育者。 1915年(大正4年)、東京帝国大学法科大学法律科在学中に高等文官試験に合格し、翌年に卒業した[2]。内務省に入り、静岡県警視、同理事官を務めた[2]。その後文部省に転じ、事務官に任じられた。書記官、参事官、督学官、専門学務局学務課長、大臣官房会計課長、社会教育局長、普通学務局長を歴任[1][2]。1936年(昭和11年)には文部次官に就任した。 退官後は東京文理科大学学長・教授を務めた[2]。1945年(昭和20年)5月、再び文部次官に就任[3]。11月には枢密顧問官に任じられた[4]。 その後、公職追放となり[5]、追放解除後は大妻女子大学学長を務めた[6]。 1957年には日本相撲協会に請われて設立されたばかりの運営審議委員会委員となった[7]。
経歴
栄典
位階
1918年(大正7年)2月12日 - 従七位[8]
1920年(大正9年)3月10日 - 正七位[8]
1922年(大正11年)5月10日 - 従六位[8]
1924年(大正13年)10月1日 - 正六位[8]
1926年(大正15年)8月16日 - 従五位[8]
1931年(昭和6年)9月1日 - 正五位[8]
1935年(昭和10年)3月15日 - 従四位[8]
1937年(昭和12年)6月16日 - 正四位[8]
1945年(昭和20年)7月2日 - 従三位[8]
勲章
1932年(昭和7年)3月14日 - 勲四等瑞宝章[8]