河原崎座
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歌川廣重画『東都名所  芝居町繁榮之圖』 芝居見物客で賑わう猿若町。通り左側手前から中村座・市村座・河原崎座。それぞれの芝居小屋の木戸口の上には櫓があがっている。天保末年(1830?1843年)。

江戸三座(えど さんざ)は、江戸時代中期から後期にかけて江戸町奉行所によって歌舞伎興行を許された芝居小屋。官許三座(かんきょ さんざ)、公許三座(こうきょ さんざ)、また単に三座(さんざ)ともいう。江戸には当初数多くの芝居小屋があったが、次第に整理されて四座になり、最終的に三座となった。

三座は江戸時代を通じて日本独自の伝統芸能である歌舞伎を醸成、明治以降も歌舞伎の殿堂として大正末年頃まで日本の演劇界を牽引した。目次

1 概要

2 歴史

2.1 堺町・葺屋町

2.2 木挽町

2.3 本櫓と控櫓

2.4 猿若町

2.5 明治以降


3 座の変遷と出来事

4 補注

5 参考文献

6 関連項目

7 外部リンク

概要

歌舞伎の元祖と考えられている出雲阿国名古屋山三郎が、寺院の境内などで歌舞伎踊りを披露して大評判をとったといわれるのは慶長年間(1596?1615年)のことである。その後、かれらを真似て遊女や若衆たちによる興行が各地の寺院の境内や河原などで行なわれるようになっていったが、江戸府内に常設の芝居小屋ができたのは早くも寛永元年(1624年)のことだった。

歌舞伎が泰平の世の町人の娯楽として定着しはじめると、府内のあちこちに芝居小屋が立つようになる。しかし奉行所は風紀を乱すという理由で遊女歌舞伎(1629年)や若衆歌舞伎(1652年)を禁止、野郎歌舞伎には興行権を認可制とすることで芝居小屋の乱立を防ぐ方針をとった。芝居小屋の数を制限した大きな理由は、江戸で頻発した火災への対応だった。町屋の中に立つ芝居小屋はひと際その図体が大きいばかりか、構造上いったん火がつくと瞬く間に紅蓮の炎を上げて燃え上がり、周囲の家屋にもたちまち延焼した。当時の町火消しによる消火活動といえば、炎上している家屋やそれに隣接する家屋を打ち壊してそれ以上の延焼を防ぐというものだったため、芝居小屋のような巨大建造物が燃え上がるともう手の打ちようがなかったのである。

こうして府内の芝居小屋は次第に整理されてゆき、延宝の初めごろ(1670年代)までには中村座市村座森田座山村座の四座に限って「をあげる」ことが認められるようになった。これを江戸四座(えど よんざ)という。 歌舞伎座にあがった櫓 今日の歌舞伎座では通常毎年11月の「顔見世大歌舞伎」の際にのみあがる。

櫓とは、人ひとりが乗れるほどの籠のような骨組みに、2本の梵天と5本のを組み合わせ、それを座の定紋を染め抜いた幕で囲った構築物で、これを芝居小屋の入口上方に取り付け、かつてはそこで人寄せの太鼓を叩いた。この櫓をあげていることが官許の芝居小屋であることの証だった。逆に櫓のない芝居小屋は宮地芝居(みやぢ しばい)[1]と呼ばれ、簡略な小屋掛けであること、舞台の上以外には屋根をつけないこと、引幕回り舞台花道などの装置を使わないことなど、さまざまな制限が設けられた。

正徳4年(1714年)には山村座が取り潰されて中村座・市村座・森田座の江戸三座となる。その三座も座元(座の所有者)が後継者を欠いたり経営が困難になったりすると、興行権が譲渡されたり別の座元が代わって興行を行うことがしばしばあった。享保末年以降(1735?)になると、三座にはそれぞれ事実上従属する控櫓がつき、本櫓が経営難で破綻し休座に追い込まれると年限を切ってその興行権を代行した。
歴史
堺町・葺屋町 江戸名所圖會』卷一より「堺町葺屋町戲場」 天保5年(1834年)頃 の堺町・葺屋町。表通りに面して中村座(奥)と市村座(手前)が肩を並べている。

江戸の芝居小屋は、寛永元年(1624年)に山城狂言師で猿若舞を創始した猿若勘三郎が、中橋南地(なかばしなんち、現在の京橋のあたり)に櫓をあげたのにはじまる。これが猿若座(さるわかざ)である。ところがこの地が御城に近く、櫓で打つ人寄せ太鼓が旗本の登城を知らせる太鼓と紛らわしいということで、寛永9年(1632年)には北東に八町ほど離れた禰宜町(ねぎまち、現在の日本橋堀留町2丁目)へ移転、さらに慶安4年(1651年)にはそこからほど近い堺町(さかいちょう、現在の日本橋人形町3丁目)へ移転した。その際、座の名称を座元の名字である中村に合せて中村座(なかむらざ)と改称している。

一方、寛永11年(1634年)には泉州堺の人で、京で座本をしていた村山又兵衛という者の弟・村山又三郎が江戸に出て、葺屋町(ふきやちょう、現在の日本橋人形町3丁目)に櫓をあげてこれを村山座(むらやまざ)といった。しかし村山座の経営ははかばかしくなく、承応元年(1652年)には上州の人で又三郎の弟子だった市村宇左衛門がその興行権を買い取り、これを市村座(いちむらざ)とした。

堺町の中村座と葺屋町の市村座は同じ通りに面した目と鼻の先に建っていた。また界隈にはこのほかにも小芝居の玉川座[2]古浄瑠璃の薩摩座、人形劇結城座などが軒を連ねていたので、この一帯には芝居茶屋[3]をはじめ、役者や芝居関係者の住居がひしめき、一大芝居町を形成した。
木挽町 『江戸名所圖會』卷一より「木挽町芝居」 天保5年頃の木挽町・森田座。天保8年には河原崎座の興行となった。

寛永19年(1642年)、山村小兵衛(初代山村長太夫)という者が木挽町四丁目(こびきちょう、現在の中央区銀座4丁目の昭和通りの東側)に櫓をあげ、これを山村座(やまむらざ)といった。続いて慶安元年(1648年)には筑前の狂言作者・初代河原崎権之助が木挽町五丁目(現在の銀座5丁目の昭和通りの東側)に櫓をあげ、これを河原崎座(かわらさきざ)といった。さらに万治3年(1660年)には摂津の人で「うなぎ太郎兵衛」と呼ばれた森田太郎兵衛がやはり木挽町五丁目に櫓をあげ、これを森田座(もりたざ)といった。

こうして木挽町四五丁目界隈にも芝居茶屋[3]や芝居関係者の住居が軒を連ね、一時は堺町・葺屋町に匹敵する芝居町を形成、「木挽町へ行く」と言えば「芝居見物に出かける」ことを意味するほどの盛況となった。この山村座・河原崎座・森田座の三座を、木挽町三座(こびきちょう さんざ)という。

しかし間もなく河原崎座が座元の後継者を欠いて休座になったので、寛文3年(1663年)に森田座がこれを吸収するかたちで合併した。さらに正徳4年(1714年)には江島生島事件に連座して山村座座元の五代目山村長太夫伊豆大島遠島となり、山村座は官許取り消し、廃座となってしまった。こうして木挽町にはひとり森田座が残るのみとなり、あたりには次第に閑古鳥が鳴きはじめる。そこに享保の改革によってもたらされた不況の波が押し寄せ、森田座の経営は年を追うごとに悪化の一途をたどっていった。ついに享保19年(1734年)には地代の滞納がかさんで地主から訴えられてしまう。南町奉行大岡越前の裁きは地主側の訴えを全面的に認めたものとなり、森田座は返済で首が回らなくなって破綻、とうとうこれも休座に追い込まれてしまった。

慌てたのは芝居関係者だった。芝居小屋は役者や狂言作者を雇っているだけではなく、周囲に数々の芝居茶屋[3]や浮世絵の版元などを従えた歓楽街の中核である。それがなくなってしまうということは、木挽町全体の死活問題でもあった。そこで森田座に代わる新しい櫓をあげることが模索されたが、すでにこの頃までに官許三座制が確立しており、新規の櫓が認められることはまず望めない。それならばと、かつて官許を得ながら廃座になった河原崎座・都座[4]・桐座[5]の座元の子孫が名乗り出て、それぞれの座の由緒書とともに旧座の再興を願い出たのである。

街の灯が消えてしまうことは治安の面からも望ましいことではなかったので、町奉行所としては何らかのかたちで座の再興は容認することにしていた。しかし三座制の手前もあり、彼らすべてにこれを許すわけにはいかない。そこで再興するのはあくまでも森田座であるとし、三者のうちの一人が森田座の興行権を当面の間代行するというかたちでこれを許すことにした。そして森田座の勝手向きが改善したあかつきには、代興行主はすみやかに興行権を元へ戻すという条件をこれにつけ加えた。こうして三者による恨みっこなしのくじ引きの結果、二代目河原崎権之助が森田座代興行権を引き当て、翌享保20年(1735年)に河原崎座を復興したのである。


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