河北潟
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河北潟

河北潟空撮画像
2007年8月18日撮影
所在地 日本
石川県金沢市河北郡内灘町
位置.mw-parser-output .locmap .od{position:absolute}.mw-parser-output .locmap .id{position:absolute;line-height:0}.mw-parser-output .locmap .l0{font-size:0;position:absolute}.mw-parser-output .locmap .pv{line-height:110%;position:absolute;text-align:center}.mw-parser-output .locmap .pl{line-height:110%;position:absolute;top:-0.75em;text-align:right}.mw-parser-output .locmap .pr{line-height:110%;position:absolute;top:-0.75em;text-align:left}.mw-parser-output .locmap .pv>div{display:inline;padding:1px}.mw-parser-output .locmap .pl>div{display:inline;padding:1px;float:right}.mw-parser-output .locmap .pr>div{display:inline;padding:1px;float:left}.mw-parser-output .geo-default,.mw-parser-output .geo-dms,.mw-parser-output .geo-dec{display:inline}.mw-parser-output .geo-nondefault,.mw-parser-output .geo-multi-punct,.mw-parser-output .geo-inline-hidden{display:none}.mw-parser-output .longitude,.mw-parser-output .latitude{white-space:nowrap}北緯36度38分56秒 東経136度40分30秒 / 北緯36.64889度 東経136.67500度 / 36.64889; 136.67500座標: 北緯36度38分56秒 東経136度40分30秒 / 北緯36.64889度 東経136.67500度 / 36.64889; 136.67500
面積4.20[1] km2
周囲長24.8 km
最大水深6.5 m
水面の標高0 m
成因海跡湖
淡水・汽水淡水湖
湖沼型富栄養湖
プロジェクト 地形
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野鳥観察舎から内灘大橋方面を望む金沢市街金沢平野と河北潟河北潟放水路防潮水門(河北潟放水路側水面上から望む)金沢港(大野川)防潮水門(金沢港側水面上から望む)歌川広重

河北潟(かほくがた)は、石川県中部にある潟湖金沢平野の北部に位置し金沢市河北郡内灘町にまたがる[1]。古くは蓮湖・大清湖(たいせいこ)とも呼ばれた[2]。潟周辺には約70km2に及ぶ湖岸平野が広がる[3]
概要

約5000年前には海だったとされ、内灘砂丘の形成により湖盆が形成された海跡湖である[4]

海跡汽水湖であったが、1960年(昭和35年)からの金沢農地事務所による干拓事業で防潮水門が設置されたことにより淡水湖となった[4]。干拓前は面積23km2、周囲長約37kmであった[3]が、2014年10月1日現在の面積は4.20km2[1]である。干拓により水面面積は約4分の1に縮小したが、干拓後も湖沼としては石川県下で最大の面積である[4]

干拓により造成された河北潟干拓地は、金沢市、内灘町、津幡町かほく市(造成当時は宇ノ気町)にまたがる。

干拓後の水域は調整池、西部承水路、東部承水路、大野川(防潮水門下流部)からなるが、このうち調整池が一般的に河北潟と呼ばれている水域に当たる[4]
歴史

縄文時代の上山田貝塚の出土品や金沢市梅田町の弥生時代の水田跡などから、河北潟周辺には古代から人々が採集生活を送っていたとみられる[5]

かつて蓮湖、あるいは大清湖と呼ばれており、潟を埋め立てて農地に切り開こうという試みは、小規模ながらも古くから何度も繰り返されてきた。このことは潟端(津幡町)の地名などに痕跡が見られる[6]

河北潟の周辺の集落では舟による移動が行われ、家と家、家と田を結ぶ水路(舟入川)をイタニと呼ばれる小舟で移動した[5]。鉄道開通以前は水運が発達し、宇ノ気町日角には船着き場があった[7]
江戸期

新田開発を目的とした本格的な干拓は、1672年寛文12年)または1673年延宝元年)に5代目加賀藩主前田綱紀が、金沢から21戸を移住させて40石余(約3ha)を造成して潟端新村が誕生したのが始まりである[4][6]。この時に綱紀が記念に植樹したシイノキの巨木が、集落の民家の庭に今も残っている[6]

1849年嘉永2年)、銭屋五兵衛が甲村(鳳至郡)埋兵衛をして新田開発を開始し、3年後には約1.3haが造成され甲(かぶと)新開と呼ばれた[4][8]

一方、1851年(嘉永4年)には、豪商銭屋五兵衛が三男の要蔵に命じて20年で4600石(約230ha)を埋め立てる計画を進めたが、翌1852年(嘉永5年)に疑獄事件が発生して事業は中断された[4]
明治・大正期

明治時代から昭和初期にかけては重要な漁場で、向粟崎の袋網や大根布の狩曳網などの特色ある漁法が用いられた[5]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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