河内音頭
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河内音頭(かわちおんど)は、大阪府下北 - 中河内地域を発祥とする伝統的な河内音頭、及びその音頭をアレンジさせた、近代・現代河内音頭をいう。大阪では河内地域以外でも盛んに盆踊りなどで踊られ、その曲目は全国的に愛聴されている。目次

1 第一章

2 第二章

3 第三章

4 第四章

5 第五章

6 第六章

7 第七章

8 第八章

9 エピソード

10 関連本

11 参考文献

12 脚注

13 関連項目

14 外部リンク

第一章

江戸期から生駒山沿いの地域(北河内交野地区、中河内八尾布施 (東大阪市)周辺、また南河内でもそれぞれ歌われていた土着の音頭・民謡浄瑠璃祭文といった庶民芸能仏教声明が、長い時間をかけて混ざり合い、改良されて成立。

盂蘭盆会地蔵盆の時期に盆踊り歌として歌われることになるが、元来は亡くなった人々の魂の鎮魂歌であり現世回帰した際の霊魂をもてなす意味が含まれ、いずれにせよ仏教とは切っても切れない経緯がある。

尚、伝統的な祭文音頭と、今日一般的に知れ渡れるようになった、現代の河内音頭と呼ばれる音頭は節回し(曲調)が大きく異なる。
第二章

江戸時代の後期には、交野郡において、交野節が歌われていたとされ、村井市郎によれば、これが河内音頭の元節であるとされている。右田伊佐雄によれば、交野節が河内地方に伝わる各地域の伝承音頭を「食いつぶした」と表現しており、一時期、河内の広い範囲において、交野節が取られていたことが示唆される。

村井によると、同じ節の単調な繰り返しである交野節の、節使いに変化を持たせて、飽きられない音頭の取り口を開発したのが、明治初期から北河内一円で活躍した『初代歌亀』(1845-1915 河内国野口村-現在の大阪府門真市出身、本名中脇久七)[1]を名乗る音頭取りである。

『初代歌亀』は西洋音階が本格的に日本に入る10数年前にそれまで短調(minor)で唄われていた音頭を偶然部分的に長調(major)で唄いだしたのが、歌亀節であるが、原則的には江州音頭の節に沿っている。

交野節から歌亀節への変遷が、現代詠われている河内音頭の進化の始まりとされている。ただ、交野節が河内諸国で独特の節使いで歌われたように、河内地方には集落レベルで音頭や民謡が存在したと考えられるため、河内音頭の変遷こそが興味深い点である。
第三章

大正から昭和初期に録音されたSPレコードなどに残されている『正調河内音頭』は極めて現在の交野節・江州音頭などに酷似した節で取られている。

大正末期頃まで近畿地域で盛んに歌われ、踊られていたのは、滋賀東近江八日市)発祥の音頭である江州音頭や、伊勢伊勢音頭であった。

そして江州音頭は明治中期頃に千日前界隈の寄席では落語音曲と並んで人気の演目となった。
第四章

大正中期には平野節の初音家太三郎(初音家初代宗家)が登場し、従来唄われてきた河内音頭を大幅にアレンジし、現在に繋がる節回しやお囃子が誕生した。この太三郎の編み出した新しい河内音頭も、寄席の演目として人気を博すようになった。

寄席小屋で興行として演じられるようになると、益々江州音頭や浪曲などの諸芸と融合・影響を受け、河内音頭が飛躍的に変革・発展を遂げていく。

しかし、昭和に入り、社会情勢不安やテレビの台頭による相次ぐ寄席の閉鎖、自治会的地域共同体の減少などにより、祭事では経費の削減などで行なわれなくなり江州・河内音頭は衰退していく。
第五章

昭和中期頃までは河内音頭は衰退の時代が続いていたが、1961年テイチクから発売された鉄砲光三郎の『鉄砲節河内音頭シリーズ』(編曲和田香苗)が累計出荷数100万枚を超える大ヒットとなり、注目を浴びるようになり、また全国的にその知名度を広げた。

昭和40年代頃には、太三郎の弟子である初音家賢次(1930-2000 初音家二代目宗家 中村美律子の師匠)や、天狗連上がりの三音家浅丸(1938-1981)といった音頭取りが活躍し、「初音節」、「浅丸節」という音頭取りの名を冠した独特のリズム=の河内音頭が生まれた。


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