山本
やまもと
国 日本
地方近畿地方
都道府県大阪府
自治体八尾市
旧自治体八尾町、三野郷村(一部)
面積5.59km²
世帯数24,205世帯
総人口55,723人( ⇒住民基本台帳人口及び外国人登録人口、2011年12月31日現在)
人口密度9,968.34人/km²
八尾市役所山本出張所
.mw-parser-output .geo-default,.mw-parser-output .geo-dms,.mw-parser-output .geo-dec{display:inline}.mw-parser-output .geo-nondefault,.mw-parser-output .geo-multi-punct,.mw-parser-output .geo-inline-hidden{display:none}.mw-parser-output .longitude,.mw-parser-output .latitude{white-space:nowrap}北緯34度37分40.92秒 東経135度37分15.64秒 / 北緯34.6280333度 東経135.6210111度 / 34.6280333; 135.6210111
河内山本(かわちやまもと)とは、大阪府八尾市 (旧河内国若江郡) のほぼ中央部にある地域。
他の山本地域と区別するために「河内」を冠することがあるが、一般には単に山本と称する。 八尾市内のいわゆる山本地域に包括される地域は近鉄河内山本駅付近を中心とした広範囲にわたり、現住所表示では、山本町、山本町北、山本町南、東山本町、西山本町、東山本新町、山本高安町、東町、小阪合町、南小阪合町といった複数の地名に分かれる。 そのうちの山本町のほぼ全域、山本町北の大半、山本町南の大半、山本高安町のほぼ全域、東山本新町1丁目の一部、刑部1丁目の一部 の南北約3km・東西約300mの範囲は 大和川の付け替えによって創生され、「山本新田」として開発され、1889年以降1961年までは大字山本だった地域である。 現在は大阪郊外の住宅地となっている。 なお、本ページでは旧山本新田→旧大字山本地域内に限定して解説する。 令制国一覧 > 畿内 > 河内国 > 若江郡 > 山本新田 この地域はかつて河内国若江郡に属し、新田開発以降には小田原藩の支配下にあった。1889年(明治22年)4月1日の市町村制施行時に近隣の15か村と合併して八尾村の一地域となった。 かつて、本地には大和川が流れ、周囲の低地は田畑として利用されていた。当然ながら現在の山本には集落は無く、流域の西側に小阪合集落、中野集落が、東側に万願寺集落があった。これらの集落は大阪と奈良方面を結ぶ「立石街道」の沿線上にあった。 旧大和川はたびたび氾濫し、周囲の農村に被害をもたらしていた。 宝永元年(1704年)に大和川付け替え工事が行なわれ、旧河川・湖沼跡に広大な敷地ができたが、そのうちの万願寺集落近傍・南北約3kmほどの新田の開発権利を、山中庄兵衛正永・本山弥右衛門重英 両名が落札し、新田開発を請け負った。新田名・地名は両名の名字から取られている。 宝永2年(1705年)に工事が完了、宝永5年(1708年)の検地をもって正式名称が確定した。万願寺集落の西側・立石街道沿道に、玉串川との交差部・山本橋を中心にして、南東に山本新田会所、南西に山本八幡宮、主に北側に十数軒の農家をもって「山本新田」集落ができた。 当地は元々は川床であり、水持ちが悪く、米作には向かなかった。反面、綿の作付けに向いていた。もともと中河内地方は綿作りが行われており、新田開発を期に大発展していく。 享保9年(1724年)に大坂の大火で、本山の商家である「加賀屋」も焼失し、新田を抵当にしていた融資が返済できず、享保13年(1728年)に融資元である「泉屋」の住友吉左衛門に新田を譲った。以来、この地は昭和15年(1940年)9月まで住友家(住友財閥)の所有であった。 綿の作付けは江戸時代を通じて栄え、織布製品はいわゆる「河内木綿 明治維新以降、品質の良い外国産の綿が輸入されるようになり、さらに薩摩藩が堺で戎島紡績所を開設するなど機械紡績が普及しはじめたため、品質に劣る日本国内産の綿花や手紡製品は次第に駆逐されていった。 河内地区も例外ではなく、粗悪品の製造を行うものが現れて市場の信用を失うなどして、綿の作付けや河内木綿の製造は衰退していった。 山本においても少なからず影響を受けている。 綿畑は、大都市(大阪)近郊の野菜供給地となっていった。 明治維新以後、国会開設運動を発端とした自由民権運動の影響は山本にも波及した。それは民権運動家の指導を通じて村民の権利意識の高まりとして現れ、明治13年(1880年)12月に小作料をめぐっての小作料不納運動に発展した。 明治25年(1892年)には綿が不作だったにもかかわらず、当時の支配人が小作料の減免を認めず、なおかつ小作料を納めない者の耕作地の取り上げを通告したため、12月25日に400名程度の小作人が住友会所へ押しかけようとし、騒ぎを察知して駆けつけた警察官ともみ合いになりかけた。この時は住友合資会社重役と小作人代表とで話し合い解決されている。 このように、新田経営が行き詰まりを見せる中、昭和2年(1927年)に府立高等女学校の誘致と住宅開発を理由として住友合資会社は小作人に土地の返還を要求した。そのため200人以上が集まる争議となった。この時は一反あたり190円の解決金とその年の小作料全額免除で解決した。これをもって山本での新田経営は終焉し、後述の住宅開発がおこなわれることとなる。 1925年(大正14年)に山本集落の南をかすめるように大阪電気軌道(現在の近鉄大阪線)の路線が延伸開業し、当地に山本停留所(現在の河内山本駅)が開業した。 線路は八尾(現在の近鉄八尾駅)付近から真東に方向を変え、さらにこの地で東からほぼ真南に方向を変えているが、小さな農村と田畑だけという開業当時の沿線状況からすると多少不自然に感じる。当初は八尾付近からまっすぐ南東方向・堅下方面へ敷設する計画であったが、沿線予定地付近で敷設反対運動が起き、土地の買収が進まなかったため、玉串川沿いに土地を所有する住友本社に土地の譲渡を打診し、ルート変更したとされる。後述の山本での住宅開発の絡みで計画が変更されたともいわれている。 この時、山本八幡宮、中野集落の南に山本停留所が開設されると聞いた付近の住民による反対運動が起きている。「若いモンが仕事せんと電車に乗って町へ遊びに行きよる。極道モンが増えよる。」などと年寄りが心配したという。 大軌線開業後の1929年(昭和4年)に住友合資会社により、当地での住宅開発が開始される。山本停留所の北側、大阪府立八尾高等女学校(現在の大阪府立山本高等学校)、八尾第二小学校(現在の八尾市立山本小学校)あたりまでの南北約1kmの範囲で先ず分譲された。立石街道沿いの辺りは商店が建ち並んで商店街を形成したが、現在は寂れてしまった。 山本停留所の南側 (現在の高安駅前交差点付近までの南北約1kmの範囲) の開発・分譲は停留所北側に比べると緩やかであった。駅前にわずかな期間だけ、芝居小屋があった。商店街が形成されるようになるのは太平洋戦争後だった。 1940年(昭和15年)に、住友財閥は山本周辺の土地を手放し、当時の八尾町に寄贈している。 戦後、山本駅南側に「山本市場」が開設され、周りに商店が建ち並ぶようになり、駅南側の住宅地も発展していく。 1965年(昭和40年)ごろに、(現在の山本町北五丁目から柏村町の) 玉串川沿いに桜の木が植えられ、川沿いに桜並木ができた。現在では桜の名所として知られるようになった。 高度経済成長期には新田だった場所の周囲の農村地帯も宅地化が進んでいった。 1961年(昭和36年)に町名地番改正により、大字山本は周囲の大字とともに整理のうえ新しい町名に変更、住居表示が実施された。
概要
歴史
日本 > 近畿地方 > 大阪府 > 八尾市 > 大字山本(1961年まで)
日本 > 近畿地方 > 大阪府 > 八尾市 > 山本町、山本町北、山本町南、山本高安町ほか(1961年以降)
大和川付け替え以前
山本新田の開発
河内木綿の衰退
小作騒動と新田経営の終焉
大軌の開業と住宅開発大軌山本停留所(昭和4年頃)
太平洋戦争後から現在まで
地理
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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
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