河内国司(かわちこくし)は、河内国の国司で、大国であるため、養老律令の職員令にて守・介・大掾・少掾・大目・少目の各1名が定員とされたが、それぞれの権官が置かれることもあった。官位相当は守(従五位上)、介(正六位下)、大掾(正七位下)、少掾(従七位上)、大目(従八位上)、少目(従八位下)。このほか、官位相当外の下級官人として史生3名が定められた。
河内国は藤原京、平城京、長岡京、平安京などの各時代の都の隣国という位置にあり、都と海を繋ぐ要衝の地であったために重要視され、都に近いことから権力の中枢にある権力者の与党が任命されたり兼務することが多かった。
歴史
河内職詳細は「河内職」を参照
称徳天皇の勅によって、河内国は神護景雲3年(769年)から、西京(由義宮とも。河内国若江郡八尾木村(八尾市弓削)に建設された離宮)が定められたために河内国を改めて河内職とした。これにともない、それまでの国司(守・介・掾・目)から河内職の長官(大夫)・次官(亮)・判官(大進および少進)・属に改められた。この時の長官には藤原雄田麻呂(百川)、次官に紀広庭、大進に河内三立麻呂(法王宮職大進からの兼任)、少進に高安伊賀麻呂がそれぞれ任じられた。しかし、翌4年(770年)に称徳天皇が死去するとすぐに河内職は河内国に復され、存続期間をわずかに10ヶ月で終えた。これは西京および河内職の設置が、由義宮の主の弓削道鏡を寵愛したという称徳天皇の優遇策によるものであり、これが天皇死後の道鏡失脚で解消されたためと推定されている。西京・河内職の設置は『続日本紀』の神護景雲3年10月(旧暦)条による。また、河内職の河内国への復帰は翌宝亀元年の8月末(同)とされる(『続日本紀』)。「由義宮」の所在については『河内志』による[1]。
国司歴代一覧
河内守
令制施行 - 平安末期
来目塩籠 (672年(天武天皇元年)7月 見、『日本書紀』)。
大石王 (703年(大宝3年)7月 任、従五位下『続日本紀』)。
多治比水守 (707年(慶雲4年)5月 任、(和銅元年)3月 近江守となる、正五位下『続日本紀』)。
石川石足 (708年(和銅元年)3月 任 『続日本紀』)。
賀茂吉備麻呂 (717年(養老元年)4月 任 正五位下『続日本紀』)。- 8世紀前半に活躍した人物。
大伴?志備 (742年(天平14年)4月 見、従五位下『続日本紀』)。
大伴古慈斐 (746年(天平18年)3月、解任)。
百済王敬福 (750年(天平勝宝2年)(月欠)任、752年(天平勝宝4年)10月 常陸守と為す、従三位『続日本紀』)。- 8世紀中ごろに活躍した百済王族出身の人物。河内にある百済王神社の建立者。天平21年(749年)、東大寺大仏の建立に使用する黄金が不足した際には折りから陸奥守の在任中に黄金を発見したことから、その功績により従五位上陸奥守から従三位宮内卿兼河内守に任官。
紀飯麻呂 (759年(天平宝字2年)(月欠) 任、正四位下『公卿補任』)。
仲石伴 (760年(天平宝字4年))1月 任、従四位下『続日本紀』)。
大和長岡 (760年(天平宝字4年)(月欠) 任、『続日本紀』)。
阿倍毛人 (763年(天平宝字7年)1月 任、正五位下『続日本紀』)。
石上息継 (768年(神護景雲2年)11月 見、正五位上『続日本紀』)。『続日本紀』には、これ以前に天平神護元年(765年)10月に河内守・石上息継が正五位上を授けられた記述がある[2]。
(河内職長官)藤原雄田麻呂 (769年(神護景雲3年)10月 任、従四位上・河内大夫『続日本紀』)。
紀広庭 (770年(宝亀元年)8月 任(従五位上)、774年(宝亀5年)3月 罷、『続日本紀』)。
紀広純 (774年(宝亀5年)3月 任、775年(宝亀6年)9月 陸奥介と為す、従五位下『続日本紀』)。
佐伯国益 (775年(宝亀6年)9月 任、正五位下『続日本紀』)。
佐伯真守 (779年(宝亀10年)9月 任、正五位下 『続日本紀』)。
阿倍祖足 (781年(天応元年)2月 従五位下『続日本紀』)。
巨勢苗麻呂 (785年(延暦4年)1月 任、(延暦6年)閏5月 卒、正五位下『続日本紀』)。
(河内和泉長官) (巨勢苗麻呂(786年(延暦5年)9月)。
大伴蓑麻呂