河内国
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この項目では、令制国について説明しています。

氏族の河内については「河内氏」をご覧ください。

戦艦については「河内 (戦艦)」をご覧ください。

河内国

■-河内国
■-畿内
別称河州(かしゅう)
所属畿内
相当領域大阪府東部(当初は南西部も含む)
諸元
国力大国
数14郡79郷
国内主要施設
河内国府大阪府藤井寺市
河内国分寺大阪府柏原市河内国分寺跡
河内国分尼寺(推定)大阪府柏原市
一宮枚岡神社(大阪府東大阪市
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河内国(かわちのくに、かはちのくに、.mw-parser-output .lang-ja-serif{font-family:YuMincho,"Yu Mincho","ヒラギノ明朝","Noto Serif JP","Noto Sans CJK JP",serif}.mw-parser-output .lang-ja-sans{font-family:YuGothic,"Yu Gothic","ヒラギノ角ゴ","Noto Sans CJK JP",sans-serif}旧字体:河?國)は、日本の地方行政区分である令制国の一つ。畿内に属する。
沿革通法寺の山門三好長慶
古代

飛鳥時代7世紀に成立した。『古事記』には川内の表記も見え、7世紀末・8世紀初めの木簡2例にも川内と書かれている[1]。河内の名が確定したのは、おそらく大宝4年(704年)の国印鋳造時である[2]

河内の名を持つ国造には凡河内国造がある。また古代大豪族物部氏の勢力があり、東大阪市衣摺は、その本拠地のひとつであった。

霊亀2年(716年)4月16日に、大鳥郡和泉郡日根郡を割いて和泉監を分立させた。天平12年(740年)8月20日に和泉監を併合するが、天平宝字元年(757年)5月8日に、今度は和泉国として再び分立させた。

称徳朝神護景雲3年(769年)に由義宮八尾市)が建設されるとこれを西京と称し、それに伴って河内国が廃止され、かわって特別行政組織河内職が設置されたが、翌年元に戻された。

羽曳野市壺井は、武家の棟梁となった河内源氏が本拠地とした地で、その祖・源頼信や子の頼義、孫の義家の三代の墓が、河内源氏の菩提寺通法寺跡の近くに残っている。鎌倉幕府を開いた源頼朝は、彼らの後裔である。
中世

鎌倉時代末期、南河内の豪族の楠木正成とその一族が、後醍醐天皇に呼応して幕府打倒の兵を挙げ、下赤坂城上赤坂城千早城に立て篭って幕府の大軍を苦しめた。正成は建武政権で国司守護の両方に任命されたが、足利尊氏が反旗を翻して南北朝の内乱が始まると、河内は主戦場となることが多くなり、正成の長男・正行高師直率いる室町幕府の軍勢と四條縄手(四條畷)で戦い戦死した。

室町時代、河内守護三管領の1つ畠山氏が世襲し、畠山基国満慶満家持国と続いた。しかし、持国の跡目を巡って甥の畠山政長と息子の畠山義就が争いを続け、これをきっかけの一つとし、足利将軍家や守護の家督相続問題も絡んで、日本の大半の地域を二分する応仁の乱が勃発した。

応仁の乱が終息しても、両畠山氏の戦いは継続し、河内は戦国時代に突入した。政長は正覚寺大阪市平野区)で管領細川政元と義就の息子義豊らに討たれたが(明応の政変)、子の尚順紀伊国にあって捲土重来をはかり、河内・紀伊の守護として返り咲きに成功する。そして稙長の時に義就系の義英を討滅し、河内は統一されたが、長らく続いた戦乱によって荒廃し、実権は守護代遊佐長教の手にわたり、守護は傀儡化されていく。

細川政元が阿波から迎えた養子・澄元の子晴元の時代、阿波国から上洛した三好長慶は遊佐長教の娘を妻に迎えて勢力を蓄えながら晴元に従い、晴元の意に従わない木沢長政を高井田(大阪府柏原市高井田)で討つなど活躍した。しかし、長慶は後には晴元と対立、晴元方の三好政長江口の戦いで殺害して晴元政権を打破すると、将軍を傀儡化して幕府の実権を握り、本拠地を摂津の芥川山城から河内の飯盛山城大阪府大東市)に移し、以後畿内において三好氏は強勢を誇った。

三好長慶の没後、三好三人衆松永久秀が抗争し、河内・大和が戦場になったが、織田信長が上洛すると、河内の北半国を長慶の養子・三好義継、南半国を畠山昭高(信長の妹婿)に安堵する。しかし、まもなく義継・昭高は元亀兵乱に前後して没落し、河内は信長の重臣佐久間信盛の支配に入った。その信盛も後に信長に疎まれ追放される。
近世

本能寺の変の後、羽柴秀吉清洲会議の結果、河内を領国としておさえる。秀吉が天下人となり、大坂城を築くと、河内の重要拠点であった若江城は廃城となった。

秀吉の死後、関ヶ原の戦いを経て、徳川家康江戸幕府を開くが、河内は秀吉の子・秀頼の領国として幕藩体制には入らなかった。大坂夏の陣では、大坂城は外堀を埋められ裸城となり、篭城戦はできないと判断した大坂方は、京都から大坂をめざす徳川方を野戦で迎え撃ち、京坂間にある河内の各所で戦いが行われた。主なものとして、道明寺の戦い後藤基次 vs 伊達政宗松平忠輝水野勝成真田信繁北川宣勝薄田兼相 vs 伊達政宗・松平忠輝・水野勝成)、八尾・若江の戦い木村重成 vs 井伊直孝長宗我部盛親 vs 藤堂高虎)などがあった。

江戸時代になると、河内は幕府領および旗本領が点在し、大名としては狭山藩北条家丹南藩の高木家のみが存在した。また、小田原藩大久保家の領地も多く存在した。


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