河上 肇マルクス経済学
河上肇
生誕 (1879-10-20) 1879年10月20日
日本・山口県玖珂郡岩国町
死没 (1946-01-30) 1946年1月30日(66歳没)
日本・京都府京都市左京区
研究機関京都帝国大学
母校東京帝国大学
影響を
受けた人物内村鑑三
影響を
与えた人物柴田敬、難波大助、近衛文麿、木戸幸一、水田三喜男、宇都宮徳馬、蜷川虎三、水谷長三郎、渡瀬譲、中川一郎、毛沢東、郭沫若、李登輝、周恩来
テンプレートを表示
法然院にある河上肇と夫人の墓
河上 肇(かわかみ はじめ、1879年(明治12年)10月20日 - 1946年(昭和21年)1月30日)は、日本の経済学者。
京都帝国大学でマルクス経済学の研究を行っていたが、教授の職を辞し、共産主義の実践活動に入る。日本共産党の党員となったため検挙され、獄中生活を送る。カール・マルクス『資本論』の翻訳(第一巻の一部のみ翻訳)やコミンテルン32年テーゼの翻訳のほか、ベストセラー『貧乏物語』の他に、『第二貧乏物語』『資本論入門』の著作がある。死後に刊行された『自叙伝』は広く読まれた。名文家であり、漢詩もよく知られている。福田徳三とは終生のライバルであった。 山口県玖珂郡岩国町(現在の岩国市)に旧岩国藩士の家に生まれる。祖母に溺愛され、わがままに育ったという[1]。山口尋常中学校卒業ののち、1898年に山口高等学校法科を卒業し[2]、東京帝国大学法科大学政治科に入学。その時、故郷では見ることのできなかった東京での貧富の差に大変なショックを受ける。その後、キリスト教者内村鑑三に大きな影響を受け、また1901年11月20日、東京本郷中央会堂で、木下尚江・田中正造らの足尾銅山鉱毒事件の演説会で感激し、その場で外套、羽織、襟巻きを寄付して、『東京毎日新聞』に「特志な大学生」であると報ぜられた(自叙伝5)。1902年(明治35年)大学を卒業[3]。その後国家学会雑誌に投稿するようになり、人々の幸福に経済学をもって貢献しよう、と考えるようになる。1903年(明治36年)東京帝国大学農科大学実科講師に就任。その後専修学校、台湾協会専門学校、学習院などの講師を兼任し、読売新聞に経済記事を執筆。1905年(明治38年)12月5日、教職を辞し、12月8日、無我愛を主張する伊藤証信
生涯
生い立ち
マルクス主義者として党員時代に河上が使った共産党のゴム印
1908年(明治41年)、田島錦治に請われ、京都帝大の講師となって以後は研究生活を送る。1912年には、これまでの自己の研究を総括した論文集『経済学研究』を執筆する。1913年(大正2年)から1915年(大正4年)にかけて2年間のヨーロッパ留学に赴く。1914年には法学博士の学位を授与される[4]。帰国後、教授。1916年(大正5年)9月11日から12月26日まで『東京朝日』に『貧乏物語』を連載し、翌1917年3月に出版。大正デモクラシーの風潮の中、貧困というテーマに経済学的に取り組んだ書はベストセラーになった。中にはマルクス経済学の紹介もあるが、結論は、貧乏をなくすには金持ちが奢侈をやめることだというものだった。河上は『貧乏物語』の中で「ワーキングプアが生まれるのは、富裕層が贅沢をして、社会が貧者の生活必需品を作らないからである」という批判を行い、社会全体が贅沢を止め、質素倹約をすれば貧困の問題は解消されると論じた[5]が、福田徳三や社会主義者の堺利彦から「現実的ではない」と痛烈に批判された。1919年1月20日、個人雑誌『社会問題研究』を創刊(1930年10月まで)。
1920年(大正9年)9月に京大で経済学部長になる。その後、マルクス経済学に傾倒し、研究を進める。1921年(大正10年)河上が執筆した論文「断片」のため、雑誌『改造』は発売禁止となるが、この論文はのちに虎の門事件を起こす難波大助に影響を与えたという。1924年、労農派の櫛田民蔵が河上のマルクス主義解釈は間違っていると痛烈に批判した[6]。河上は批判が的を射ていることを認め[7]、マルクス主義の真髄を極めようと発奮する。『資本論』などマルクス主義文献の翻訳を進め、河上の講義は学生にも大きな影響を与えた。『社会問題研究』に1927年2月号から1928年12月まで「唯物史観に関する自己清算」を発表。
1928年(昭和3年)4月18日、辞職をせまられ京都帝大を辞職(依願免官)[8]。辞職勧告を受けた理由は「マルクス主義講座」の広告用冊子に不穏当な短文をしたためたこと、香川県で行った選挙演説に不穏当な箇所があったこと、社会科学研究会員の中から治安を紊乱する者が出たことであった[9]。経済学部の学生は大学当局反対会を開催、約四百人の参加を見た。しかし文部省が全国の大学に対し、左傾教授処分方針を示していたこともあり流れを変えることはできなかった[10]。一方、皮肉なことに同日付で河上の特別昇給が決まっており、四級俸から二級俸(700円の増俸)の辞令も発令された[11]。
その後は、大山郁夫のもと労働農民党の結成に参加。1930年(昭和5年)、京都から東京に移るが、やがて労働農民党は誤っていると批判し、大山と決別。雑誌『改造』に『第二貧乏物語』を連載し、マルクス主義の入門書として広く読まれた。
昭和恐慌のときには、河上はデフレを放置しても問題ではなく、デフレを脱却しても資本主義経済の限界は解消されないと主張した[12]。 京都大学を退官して、『資本論』の翻訳に没頭していた河上肇は、昭和初期から地下の共産党へのカンパを開始した。初めは組織の末端にいた活動家に対する寄付だけだったが、1931年(昭和6年)夏の頃、日大の民法学者杉ノ原舜一を介して、党中央と連絡が付き、資金を党中央に直接入れるようになった。当初は、月々百円単位(2千倍で換算して、百円は現在の20万円くらいと思ってよい)だったが、やがて、千円単位の臨時の寄付を度々頼まれるようになった。 そして1932年(昭和7年)9月9日、河上自身が日本共産党に入党[13]。この際、1万5千円を党に提供した[14]。同月、潜伏を開始[15]して地下運動に参加する。入党後の仕事は、機関紙「赤旗」の編集を助け、政治パンフレット作りに参加し、その執筆にあたることだった。
共産党との関わり