武宣王 沮渠蒙遜
北涼
第2代王
王朝北涼
在位期間401年 - 433年
都城張掖→姑臧
姓・諱沮渠蒙遜
諡号武宣王
廟号太祖
生年建元4年(368年)
没年義和3年(433年)
父沮渠法弘
后妃孟王后
陵墓元陵
年号永安 : 401年 - 412年
玄始 : 412年 - 428年
承玄 : 428年 - 431年
義和 : 431年 - 433年
沮渠 蒙遜(そきょ もうそん)は、五胡十六国時代の北涼の第2代王。北涼の実質的建国者。 臨松郡(現在の甘粛省民楽県)盧水胡[1]の出身。代々盧水胡族長を務めた家に生まれた。優れた才能があり、権謀に通じていたために後涼の懿武帝呂光らに恐れられた。このため常に酒を飲んで彼らの目を欺いたという。
生涯
天璽3年(401年)に策を弄して沮渠男成と段業を殺害、自ら涼州牧・張掖公を称し北涼の支配者となる。
領域を西秦・南涼・西涼・後涼・後秦・夏・北魏に囲まれ、勢力拡大は困難であったが、強きに従い弱きを討つ巧みな外交を展開して領域を拡大、玄始10年(421年)に西涼を滅ぼして敦煌を支配下に入れ、河西地方全域を支配した。
西秦と対抗するために夏・北魏と提携する一方、江南の東晋・南朝宋へも遣使し涼州牧・河西王に封じられた。だが、承玄4年(431年)に西秦・夏が滅亡すると華北における北魏の影響力が増大したため、北魏に人質を送り涼州牧・涼王に封じられた。
義和3年(433年)に病死、享年66。北魏はその葬儀に使節を派遣し、武宣王と追諡した。
宗室
高祖父
沮渠暉仲帰
曾祖父
沮渠遮
祖父
沮渠祁復延
父
沮渠法弘
伯父
沮渠羅仇
沮渠麹粥
弟
沮渠拏
沮渠漢平
従兄
沮渠男成
王后
孟王后
子女
沮渠政徳
沮渠興国
沮渠牧?
沮渠菩提
沮渠無諱
沮渠安周
沮渠宜得
沮渠秉
沮渠董来
沮渠奚念
興平公主 - 北魏の太武帝(拓跋Z)の右昭儀
脚注^ 盧水胡は『晋書』載記では匈奴の支族とされているが、他にも月氏説、独自の少数民族説などがある。
伝記史料
『魏書』巻九十九 列伝第八十七 盧水胡沮渠蒙遜伝
『北史』巻九十三 列伝第八十一 沮渠蒙遜伝
(段業)397-400 / 沮渠蒙遜400-433 / 沮渠牧?433-439 / 沮渠無諱443-444 / 沮渠安周444-460