沮渠牧?
[Wikipedia|▼Menu]

哀王 沮渠牧?
北涼
第3代王
王朝北涼
在位期間
433年 - 439年
都城姑臧
姓・諱沮渠牧?
諡号哀王
生年不詳
没年太平真君8年(447年
武宣王
后妃李敬受
武威公主
年号承和 : 433年 - 439年

沮渠 牧?(そきょ ぼくけん)は、五胡十六国時代北涼の第3代王。沮渠茂虔とも書かれる[1]。武宣王沮渠蒙遜の三男。
生涯

義和3年(433年)、武宣王が病に倒れた際に世子であった弟の沮渠菩提が幼弱の為、世子として擁立された。父王の死後即位し、承和と改元した[1]。また国師には劉モを配した[1]南朝宋から都督涼沙河三州西域羌戎諸軍事・車騎将軍・開府儀同三司涼州刺史・河西王に任じられ、また北朝の北魏には妹の興平公主を後宮に入れ右昭儀とし、また北魏からは太武帝拓跋Zの妹である武威公主を后に迎えた[1]。しかし承和7年(439年)に武威公主が毒殺(未遂)された際、犯人と目される自身の嫂の李氏を北魏に引き渡すことを拒否したため北魏の侵攻を受けて捕らえられ、ここに北涼は一度滅亡した[1]。ただし滅亡の翌年、弟の沮渠無諱酒泉で反乱を起こした後高昌で自立し、北涼の勢力はこの後2代保たれることになる。

北魏の都平城へ連行された沮渠牧?は助命された上、皇族として遇されるなど重用されたが、太平真君8年(447年)に北涼の都姑臧が陥落したときに国庫にあった財宝を隠し持っていたことが太武帝に露見し、怒った太武帝から後宮に入っていた沮渠昭儀(北涼の興平公主)を含めた宗族全ての死を命じられた[1]
宗室


太祖武宣王(沮渠蒙遜)

王后

李敬受 -
西涼武昭王(李ロ)の娘

武威公主 - 北魏の明元帝(拓跋嗣)の娘



興平公主(沮渠昭儀) - 北魏の太武帝(拓跋Z)の右昭儀

脚注[脚注の使い方]^ a b c d e f 尤明智『五涼史略』甘粛人民出版社、1988年、ISBN 7-226-00243-4










北涼の君主

段業)397-400 / 沮渠蒙遜400-433 / 沮渠牧?433-439 / 沮渠無諱443-444 / 沮渠安周444-460


記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:5778 Bytes
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef