沢田 研二
出生名澤田 研二(読み同じ)
生誕
(1948-06-25) 1948年6月25日(75歳)
日本・鳥取県岩美郡津ノ井村(現・鳥取市)
出身地 日本・京都府京都市
学歴京都府立鴨沂高等学校中退
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ロック[1][2]
ヴィジュアル系[1]
J-POP[3]、歌謡曲[2]
職業
歌手
俳優
ソングライター
担当楽器ボーカル
活動期間1967年 -[注釈 1]
レーベル
ポリドール(1967年 - 1982年)
ポリドール / JULIE LABEL(1982年 - 1984年)
東芝EMI / イーストワールド(1985年 - 2001年)
JULIE LABEL(2002年 - )[注釈 2]
事務所
渡辺プロダクション(1967年 - 1984年)
CO-CoLO Corporation(1985年 - 2020年)
CO-CoLO Corporation / ANIMA(2020年 - 2023年)
ANIMA(2023年 - )
共同作業者
ザ・タイガース
PYG
井上堯之バンド
エキゾティクス
CO-CoLO
JAZZ MASTER
鉄人バンド
加瀬邦彦
早川タケジ
大輪茂男
柴山和彦
公式サイト ⇒沢田研二オフィシャル
さわだ けんじ
沢田 研二
身長171 cm
血液型A型
ジャンル映画・テレビドラマ等
配偶者伊藤エミ(1975年 - 1987年)
田中裕子(1989年 - )
著名な家族田中隆三(義弟)
主な作品
映画
『太陽を盗んだ男』
『魔界転生』
『ヒルコ/妖怪ハンター』
『夢二』
『幸福のスイッチ』
『キネマの神様』
『土を喰らう十二ヵ月』テレビドラマ
『悪魔のようなあいつ』
『山河燃ゆ』
『はね駒』
『琉球の風』
『オードリー』
受賞
報知映画賞
主演男優賞
第4回『太陽を盗んだ男』ゴールデン・アロー賞
映画賞
第17回高崎映画祭
最優秀主演男優賞
第6回『夢二』日本映画批評家大賞
主演男優賞
2006年『幸福のスイッチ』毎日映画コンクール
男優主演賞
2022年『土を喰らう十二ヵ月』キネマ旬報ベスト・テン
主演男優賞
2022年『土を喰らう十二ヵ月』全国映連賞
沢田 研二(さわだ けんじ、1948年〈昭和23年〉6月25日 - )は、日本の歌手、俳優、ソングライター。ザ・タイガース及び、PYGのボーカル[注釈 3]。本名:澤田 研二(読み同じ)。身長171cm。血液型A型。
両親の実家がある鳥取県岩美郡津ノ井村(現・鳥取市)生まれで京都府京都市育ち。ニックネームは『ジュリー』[注釈 4][4]。妻は女優の田中裕子。義弟は俳優の田中隆三。前妻は歌手の伊藤エミ。
1960年代後半のグループ・サウンズ全盛期から最前線で活躍し、ソロとしてのシングル総売上は1,241万枚を記録。1982年から1991年までの9年間は歴代1位の座を保つ[注釈 5]。アルバムも合わせた総売上は約1572万枚。ザ・タイガース、PYG時代も含めたシングルの総売上は1,668万枚に上る。 1948年6月25日、両親の実家がある鳥取県岩美郡津ノ井村(現:鳥取市津ノ井)で出生[5][6]。戸籍上の名前では、“研”という文字の右下に点がある。父親は若い頃、役者を目指し長谷川一夫の内弟子だったことがあり[6]、美男は親譲りであった[6]。父はその後、映画のスチールカメラマンになって衣笠貞之助宅に夫婦で同居したことがある[6]。沢田が生まれた頃は、父は舞鶴市内の火薬研究所の取引先に勤務しており、二番目の子だったため「研二」と命名された[7]。兄妹がいる次男である[6][8]。3歳まで鳥取で育ち[6]、父が京都左京区浄土寺東田町に家を建てたため[6]、以降は京都の同地で育った[6]。京都市立第三錦林小学校[6]、同・岡崎中学校卒業後[6]、1964年4月、京都府立鴨沂高等学校入学、後に同校を中退。中学時代は"ケンカのサワケン"と洛東の学校に名を響かせるワルだった[6]。 なお、同じ高校の同学年に女優の大信田礼子がいた。少年時代はプロ野球選手に憧れ、選手では川上哲治、藤尾茂が好きだった。中学では野球部のキャプテンを務め[6]、ポジションは一塁手。京都市大会で4位になり、京都府大会に進出したが、ここで負けたことで野球選手の夢は諦めたという[9]。高校では空手部に所属した[9]。 京都のダンス喫茶「田園」でドアボーイのアルバイトをしている時にサンダースに声をかけられ、17歳でローディー兼ボーカリストになった。そのステージを見たサリーとプレイボーイズのサリー(岸部修三=現・岸部一徳)からリード・ボーカルとして誘われ、翌年の元日にサリーとプレイボーイズに正式加入、グループ名は「ファニーズ」と改めた。 ファニーズは、大阪のジャズ喫茶「ナンバ一番」に出演した際に、上条英男、スパイダクション(現・田辺エージェンシー)、そして共演したロック歌手の内田裕也からも声をかけられた。しかし具体的な話が進まなかったため、当時リーダーであった瞳みのるが東京・代々木上原の内田裕也の愛人宅を訪ね、瞳の熱意の甲斐あってメンバー全員が渡辺プロと契約。上京後、ザ・ヒットパレードのプロデューサーであったすぎやまこういちによって、テレビ番組の出演直前に「ザ・タイガース」と新たに名付けられる[10]。この時、内田に『沢ノ井謙』と言う芸名を勧められたが、本名でやりたいと拒否している[4]。 1967年2月5日にシングル「僕のマリー」でデビュー。セカンド・シングル「シーサイド・バウンド」で人気が爆発し、続く「モナリザの微笑」、そして「君だけに愛を」で一気にグループ・サウンズ (GS) の頂点へと躍り出る。とりわけ端整な容姿を持ち、貴公子的存在として10代の少女や20代の女性を中心に熱狂的な人気を獲得した。 1968年8月12日にザ・タイガースが後楽園球場で開催した「真夏の夜の祭典」は、日本で初めてのスタジアムコンサート[11]。なお、ソロとしてのスタジアムコンサートは田園コロシアム(ザ・タイガース、PYGとしても開催)、大阪スタヂアム、ナゴヤ球場、横浜スタジアム、東京ドーム、京セラドーム大阪で開催している。 1969年3月1日、アメリカの音楽雑誌の中でも歴史が長く、最も権威ある音楽雑誌の一つ『ローリング・ストーン』[12] (Vol.28) の表紙に登場。日本版が刊行される前の同誌において、日本人が表紙を飾ったのは、これが最初で最後だった。 1971年1月24日、日本武道館で行われた「ザ・タイガース ビューティフル・コンサート」でグループは解散した。 ザ・タイガースの解散後、1971年2月1日、新たなバンド・PYGに参加する。英米で結成されたクリームやブラインド・フェイスのようなスーパー・グループで、ザ・スパイダースから井上堯之と大野克夫、ザ・テンプターズから萩原健一、大口広司、ザ・タイガースから沢田と岸部修三という6人のメンバーによって結成された。
来歴
生い立ち
ザ・タイガース期詳細は「ザ・タイガース」を参照
PYG期詳細は「PYG」を参照