沢田研二
[Wikipedia|▼Menu]

沢田 研二
出生名澤田 研二(読み同じ)
生誕

(1948-06-25)
1948年6月25日(75歳)

日本鳥取県岩美郡津ノ井村(現・鳥取市

出身地 日本京都府京都市
学歴京都府立鴨沂高等学校中退
ジャンル.mw-parser-output .hlist ul,.mw-parser-output .hlist ol{padding-left:0}.mw-parser-output .hlist li,.mw-parser-output .hlist dd,.mw-parser-output .hlist dt{margin-right:0;display:inline-block;white-space:nowrap}.mw-parser-output .hlist dt:after,.mw-parser-output .hlist dd:after,.mw-parser-output .hlist li:after{white-space:normal}.mw-parser-output .hlist li:after,.mw-parser-output .hlist dd:after{content:" ・ ";font-weight:bold}.mw-parser-output .hlist dt:after{content:": "}.mw-parser-output .hlist-pipe dd:after,.mw-parser-output .hlist-pipe li:after{content:" 。";font-weight:normal}.mw-parser-output .hlist-hyphen dd:after,.mw-parser-output .hlist-hyphen li:after{content:" - ";font-weight:normal}.mw-parser-output .hlist-comma dd:after,.mw-parser-output .hlist-comma li:after{content:"、 ";font-weight:normal}.mw-parser-output .hlist-slash dd:after,.mw-parser-output .hlist-slash li:after{content:" / ";font-weight:normal}.mw-parser-output .hlist dd:last-child:after,.mw-parser-output .hlist dt:last-child:after,.mw-parser-output .hlist li:last-child:after{content:none}.mw-parser-output .hlist dd dd:first-child:before,.mw-parser-output .hlist dd dt:first-child:before,.mw-parser-output .hlist dd li:first-child:before,.mw-parser-output .hlist dt dd:first-child:before,.mw-parser-output .hlist dt dt:first-child:before,.mw-parser-output .hlist dt li:first-child:before,.mw-parser-output .hlist li dd:first-child:before,.mw-parser-output .hlist li dt:first-child:before,.mw-parser-output .hlist li li:first-child:before{content:" (";font-weight:normal}.mw-parser-output .hlist dd dd:last-child:after,.mw-parser-output .hlist dd dt:last-child:after,.mw-parser-output .hlist dd li:last-child:after,.mw-parser-output .hlist dt dd:last-child:after,.mw-parser-output .hlist dt dt:last-child:after,.mw-parser-output .hlist dt li:last-child:after,.mw-parser-output .hlist li dd:last-child:after,.mw-parser-output .hlist li dt:last-child:after,.mw-parser-output .hlist li li:last-child:after{content:") ";font-weight:normal}.mw-parser-output .hlist ol{counter-reset:listitem}.mw-parser-output .hlist ol>li{counter-increment:listitem}.mw-parser-output .hlist ol>li:before{content:" "counter(listitem)" ";white-space:nowrap}.mw-parser-output .hlist dd ol>li:first-child:before,.mw-parser-output .hlist dt ol>li:first-child:before,.mw-parser-output .hlist li ol>li:first-child:before{content:" ("counter(listitem)" "}

ロック[1][2]

ヴィジュアル系[1]

J-POP[3]歌謡曲[2]

職業

歌手

俳優

ソングライター

担当楽器ボーカル
活動期間1967年 -[注釈 1]
レーベル

ポリドール(1967年 - 1982年)

ポリドール / JULIE LABEL(1982年 - 1984年)

東芝EMI / イーストワールド(1985年 - 2001年)

JULIE LABEL(2002年 - )[注釈 2]

事務所

渡辺プロダクション(1967年 - 1984年)

CO-CoLO Corporation(1985年 - 2020年)

CO-CoLO Corporation / ANIMA(2020年 - 2023年)

ANIMA(2023年 - )

共同作業者

ザ・タイガース

PYG

井上堯之バンド

エキゾティクス

CO-CoLO

JAZZ MASTER

鉄人バンド

加瀬邦彦

早川タケジ

大輪茂男

柴山和彦

公式サイト ⇒沢田研二オフィシャル

さわだ けんじ
沢田 研二
身長171 cm
血液型A型
ジャンル映画テレビドラマ
配偶者伊藤エミ(1975年 - 1987年)
田中裕子(1989年 - )
著名な家族田中隆三(義弟)
主な作品
映画
太陽を盗んだ男
魔界転生
ヒルコ/妖怪ハンター
夢二
幸福のスイッチ
キネマの神様
土を喰らう十二ヵ月』テレビドラマ
悪魔のようなあいつ
山河燃ゆ
はね駒
琉球の風
オードリー

 受賞
報知映画賞
主演男優賞
第4回『太陽を盗んだ男ゴールデン・アロー賞
映画賞
第17回高崎映画祭
最優秀主演男優賞
第6回『夢二日本映画批評家大賞
主演男優賞
2006年幸福のスイッチ毎日映画コンクール
男優主演賞
2022年土を喰らう十二ヵ月キネマ旬報ベスト・テン
主演男優賞
2022年土を喰らう十二ヵ月』全国映連賞
男優賞
2022年度『土を喰らう十二ヵ月』 受賞歴参照

テンプレートを表示

沢田 研二(さわだ けんじ、1948年昭和23年〉6月25日 - )は、日本歌手俳優ソングライターザ・タイガース及び、PYGボーカル[注釈 3]。本名:澤田 研二(読み同じ)。身長171cm。血液型A型。

両親の実家がある鳥取県岩美郡津ノ井村(現・鳥取市)生まれで京都府京都市育ち。ニックネームは『ジュリー』[注釈 4][4]。妻は女優の田中裕子。義弟は俳優の田中隆三。前妻は歌手の伊藤エミ

1960年代後半のグループ・サウンズ全盛期から最前線で活躍し、ソロとしてのシングル総売上は1,241万枚を記録。1982年から1991年までの9年間は歴代1位の座を保つ[注釈 5]。アルバムも合わせた総売上は約1572万枚。ザ・タイガースPYG時代も含めたシングルの総売上は1,668万枚に上る。
来歴
生い立ち

1948年6月25日、両親の実家がある鳥取県岩美郡津ノ井村(現:鳥取市津ノ井)で出生[5][6]。戸籍上の名前では、“研”という文字の右下に点がある。父親は若い頃、役者を目指し長谷川一夫内弟子だったことがあり[6]美男は親譲りであった[6]。父はその後、映画のスチールカメラマンになって衣笠貞之助宅に夫婦で同居したことがある[6]。沢田が生まれた頃は、父は舞鶴市内の火薬研究所の取引先に勤務しており、二番目の子だったため「研二」と命名された[7]。兄妹がいる次男である[6][8]。3歳まで鳥取で育ち[6]、父が京都左京区浄土寺東田町に家を建てたため[6]、以降は京都の同地で育った[6]京都市立第三錦林小学校[6]、同・岡崎中学校卒業後[6]1964年4月、京都府立鴨沂高等学校入学、後に同校を中退。中学時代は"ケンカのサワケン"と洛東の学校に名を響かせるワルだった[6]

なお、同じ高校の同学年に女優の大信田礼子がいた。少年時代はプロ野球選手に憧れ、選手では川上哲治藤尾茂が好きだった。中学では野球部のキャプテンを務め[6]、ポジションは一塁手。京都市大会で4位になり、京都府大会に進出したが、ここで負けたことで野球選手の夢は諦めたという[9]。高校では空手部に所属した[9]
ザ・タイガース期詳細は「ザ・タイガース」を参照

京都のダンス喫茶「田園」でドアボーイのアルバイトをしている時にサンダースに声をかけられ、17歳でローディーボーカリストになった。そのステージを見たサリーとプレイボーイズのサリー(岸部修三=現・岸部一徳)からリード・ボーカルとして誘われ、翌年の元日にサリーとプレイボーイズに正式加入、グループ名は「ファニーズ」と改めた。

ファニーズは、大阪のジャズ喫茶「ナンバ一番」に出演した際に、上条英男、スパイダクション(現・田辺エージェンシー)、そして共演したロック歌手の内田裕也からも声をかけられた。しかし具体的な話が進まなかったため、当時リーダーであった瞳みのるが東京・代々木上原の内田裕也の愛人宅を訪ね、瞳の熱意の甲斐あってメンバー全員が渡辺プロと契約。上京後、ザ・ヒットパレードのプロデューサーであったすぎやまこういちによって、テレビ番組の出演直前に「ザ・タイガース」と新たに名付けられる[10]。この時、内田に『沢ノ井謙』と言う芸名を勧められたが、本名でやりたいと拒否している[4]

1967年2月5日にシングル「僕のマリー」でデビュー。セカンド・シングル「シーサイド・バウンド」で人気が爆発し、続く「モナリザの微笑」、そして「君だけに愛を」で一気にグループ・サウンズ (GS) の頂点へと躍り出る。とりわけ端整な容姿を持ち、貴公子的存在として10代の少女や20代の女性を中心に熱狂的な人気を獲得した。

1968年8月12日にザ・タイガース後楽園球場で開催した「真夏の夜の祭典」は、日本で初めてのスタジアムコンサート[11]。なお、ソロとしてのスタジアムコンサートは田園コロシアム(ザ・タイガース、PYGとしても開催)、大阪スタヂアムナゴヤ球場横浜スタジアム東京ドーム京セラドーム大阪で開催している。

1969年3月1日、アメリカの音楽雑誌の中でも歴史が長く、最も権威ある音楽雑誌の一つ『ローリング・ストーン[12] (Vol.28) の表紙に登場。日本版が刊行される前の同誌において、日本人が表紙を飾ったのは、これが最初で最後だった。

1971年1月24日、日本武道館で行われた「ザ・タイガース ビューティフル・コンサート」でグループは解散した。
PYG期詳細は「PYG」を参照

ザ・タイガースの解散後、1971年2月1日、新たなバンド・PYGに参加する。英米で結成されたクリームやブラインド・フェイスのようなスーパー・グループで、ザ・スパイダースから井上堯之大野克夫ザ・テンプターズから萩原健一大口広司、ザ・タイガースから沢田と岸部修三という6人のメンバーによって結成された。


次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:368 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef