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沢村 忠秋田書店『冒険王』第19巻第5号(1967)より藤本勲(左)、菊池功(中)、沢村忠(右)
基本情報
本名白羽 秀樹
通称キックの鬼
蹴りの白羽
階級ミドル級・ライト級
身長174 cm
体重61 kg
国籍 日本
誕生日 (1943-01-05) 1943年1月5日
出身地 満洲国 新京
死没日 (2021-03-26) 2021年3月26日(78歳没)
死没地 日本・千葉県
スタイル空手
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沢村 忠(さわむら ただし、1943年〈昭和18年〉1月5日 - 2021年〈令和3年〉3月26日[1])は、日本のキックボクサー。剛柔流空手道参段。満洲国出身。本名:白羽 秀樹(しらは ひでき)。娘はタレントの白羽玲子。半生を描いた漫画やアニメの『キックの鬼』の影響により、世間からは「キックの鬼」と呼ばれていた[2]。 幼少より祖父から剛柔流空手道を習う。祖父からは中国武術も習っていた模様[3]。幼少期には子役として「劇団そらまめ」という児童劇団に入っており、将来は役者を目指していた[3]。実際に中学3年生のときには新東宝の新東宝スターレットに合格し、「城哲也」の芸名でテレビドラマ等へ出演していたが、新東宝の倒産に伴い芸能活動休止を余儀なくされる[4]。 その後法政大学第一高等学校を卒業し、大映に入社。大映の研修の一環として日本大学芸術学部映画科に入学した[5]。この頃は俳優の道を諦め脚本家を目指していたようで、在学中に執筆した脚本がテレビドラマで採用されたこともあるという[6]。一方で、大学でも名門の日本大学芸術学部剛柔流空手部に入り、在学中には全日本学生空手道選手権で優勝。60戦無敗であった。野口修はその実力を評価し、キックボクシングに勧誘し、結局大学を卒業すると同時に大映を退社、野口ジムに入る[5]。 1966年(昭和41年)4月に日本キックボクシング協会が旗揚げされ、リングネームを“沢村忠”として参戦。リングネームは、1964年(昭和39年)に空手道代表としてルンピニー・スタジアムでムエタイ選手と対戦してKO勝利した中村忠に由来する。
来歴