沢島忠
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さわしま ただし
沢島 忠
新映画『映画評論』第10巻第19号(1962)より
生年月日 (1926-05-19) 1926年5月19日
没年月日 (2018-01-27) 2018年1月27日(91歳没)
出生地 日本 滋賀県愛知郡
(現・東近江市
死没地 日本 東京都
職業映画監督
ジャンル時代劇、任侠映画
活動期間1950年 - 2018年
主な作品
人生劇場』シリーズ
一心太助』シリーズ
『殿さま弥次喜多』シリーズ
『ひばり捕物帖』シリーズ
右門捕物帖』シリーズ

 受賞
日本アカデミー賞
第40回特別賞
その他の賞

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沢島 忠(さわしま ただし、旧字体:澤島、1926年5月19日 - 2018年1月27日)は、日本映画監督舞台演出家である。時代劇ひばり映画、および東映任侠映画の先駆者・巨匠として知られ、舞台演出家としても活躍していた。沢島 正継(読みは同じ)とも。
来歴

滋賀県愛知郡(現在の東近江市)に生まれる。八日市中学校(現・滋賀県立八日市高等学校)卒業[1]。1948年(昭和23年)、同志社大学文学部の聴講生となり、同大で教えていた野淵昶監督に師事、野淵の主宰する劇団「エランヴィタール」に参加し、演出助手となる。翌年大学を中退する。1950年(昭和25年)3月、同劇団が解散、俳優の月形龍之介の紹介で東横映画助監督部に入社する。翌年の3社合併で東横は東映になり、引き続き東映京都撮影所に勤務、マキノ雅弘松田定次渡辺邦男らに師事する[2]

1955年(昭和30年)4月、28歳のとき、渡辺邦男監督のスクリプターで、戦前に「マキノ東京派」と呼ばれたタカマツ・アズマプロダクションの高松豊次郎の孫娘にあたる高松富久子と結婚する[2]。のちに『暴れん坊兄弟』(1960年)などの脚本家としてクレジットされる「鷹沢和善」は富久子との共同ペンネームである。

1957年(昭和32年)に監督昇進、『忍術御前試合』で監督デビューとなる。1967年(昭和42年)、東映との契約を解消、東京映画専属、1971年(昭和46年)には「コマ・プロダクション」を設立、フリーランスとなる[2]。1977年(昭和52年) 『巨人軍物語 進め!!栄光へ』を最後に映画監督から退き、舞台演出家として活動する。また萬屋錦之介主演のテレビドラマの演出も手掛けた[3]

2017年(平成29年)3月、長年の活動が日本の映画界に大きな功績を残したとして、日本アカデミー賞第40回特別賞を受賞。

晩年は「本物の忠臣蔵を撮るんだ」と、沢島版忠臣蔵映画の制作に執念を燃やしていたが、2018年(平成30年)1月27日朝、多臓器不全のため、東京都内の病院にて死去[4]。91歳没。
作風

徹底した娯楽主義の監督・演出家で、老若男女を問わず楽しめる完成度の高い作品を手堅く仕上げる職人肌の監督である。全49本の監督作品は、時代劇、ひばり映画、仁侠映画に大別できる。

時代劇では初代中村綿之助(萬屋錦之介)の当たり役『一心太助』シリーズや『殿さま弥次喜多』シリーズなどを手掛けた。また、大友柳太朗の代表作の一つの『右門捕物帖』シリーズの『右門捕物帖 片目の狼』など2作を監督しシリーズの作風基礎を作る。

ひばり映画では、江利チエミ競演の作品を含めて多数を手掛けた。美空ひばりが最も信頼した監督でもあり、指名を受けることが多かった。このひばり映画で東映娯楽時代劇にミュージカルの要素を持ち込んだことでも知られている[5]。美空ひばりの映画シリーズ代表作の一つ『ひばり捕物帖』シリーズも最初の2作を手がけた。またひばりの母(加藤喜美枝)に気に入られたこともあり、新宿コマ劇場での座長公演を始めとしてひばり主演の舞台芝居の演出も多く手掛けている[5]

仁侠映画では鶴田浩二の代表作の「人生劇場シリーズ」などを手掛けている。『人生劇場 飛車角』はヤクザ映画の魁となった作品である。

演出家としては年に数本というハイペースで時代劇を中心に舞台演出を手掛けていた。また講演会やレトロスペクティブなどでしばしば公の場に姿を現している。
人物・逸話

美空ひばり加藤喜美枝母子に信頼された人物で家族ぐるみで付き合った[6]。また萬屋錦之介の親友[7]岡田茂の子分、弟分のような人だった[8][9][10]

沢島は、天皇と呼ばれた渡辺邦男監督に可愛いがられたが[11][12]、渡辺組のスクリプターで渡辺の右腕とも言われた高松冨久子と熱烈な恋に落ちた[12]。当時年間10本の映画を撮り、早撮りの名手として知られた渡辺は、助監督の沢島に高松を持っていかれては仕事にならないと、烈火のごとく怒り二人の結婚に猛反対した[12]。渡辺天皇の激怒にもひるまない二人に、渡辺の後見人のヤクザの大親分まで出て来て「渡辺天皇に逆らったら映画界で生きていけないぞ」と脅され、遂に渡辺から破門され、映画界から去って二人でシナリオでも書いて生きて行こうとした[12]。ここで「何もかも俺に任せろ」と出て来たのが当時、東映京都撮影所の製作部課長だった岡田茂[12]。岡田は二人を結婚させて沢島を萩原遼のチーフ助監督に配置転換させ、以降一年半で16本の萩原作品を担当させた[12]

沢島の現代的センスあふれる演出力を岡田に買われ[13]、1957年『忍術御前試合』で監督デビュー[13]1958年萬屋錦之介主演『江戸の名物男 一心太助』の試写を観た加藤喜美枝が、沢島の演出力を高く買い[6]、岡田に『ひばり捕物帖 かんざし小判』の監督に沢島を起用するよう申し入れ[14]、沢島は初めてひばり映画を手掛けた[15]。この映画で「時代劇ミュージカルをやらせて下さい」と岡田に願い出て[10][16]、全員反対する中、岡田がこのアイデアを採用し[6][10]、それまでの時代劇とは違うスピード展開のミュージカル調沢島時代劇に仕立てた[11][14]。本作は同時期公開された大映オールスター映画『忠臣蔵』を凌ぐヒットを飛ばし、「巡洋艦が敵戦艦を破った」といわれた[14]


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