沖縄県の歴史(年表)
先
史
時
代(沖縄諸島)(先島諸島)
旧石器時代先島先史時代
(下田原期・無土器期)
貝塚時代
古
琉
球(天孫氏琉球)
グスク時代
原グスク時代
三山時代
(北山・中山・南山)新里村期
中森期
琉
球
王
国第一尚氏王統
第二尚氏王統
近
世(薩摩藩支配)
近
代琉球藩
沖縄県
戦
後アメリカ合衆国による沖縄統治
沖縄県
主な出来事
三山統一による琉球王国の成立(1429年?)
琉球王国による先島諸島征服(1500-22年)
琉球王国による奄美群島征服(1571年)
薩摩藩による琉球侵攻(1609年)
琉球藩設置(1872年)
琉球処分による沖縄県の設置(1879年)
琉球救国運動の展開(1870年代-95年前後)
沖縄戦(1945年)
琉球政府設立(1952年)
祖国復帰運動(1950-72年)
コザ暴動(1970年)
沖縄返還(1972年)
ナナサンマル(1978年)
普天間基地移設問題
関連項目
奄美群島の歴史
先島諸島の歴史
日本の歴史(時代区分)
カテゴリ - コモンズ
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沖縄返還(おきなわへんかん)は、1972年(昭和47年)5月15日に、沖縄県(琉球諸島及び大東諸島)の施政権がアメリカ合衆国から日本国に返還されたこと(沖縄本土復帰[1])を指す。日本国政府とアメリカ合衆国政府との間で署名された協定の正式名称は、「琉球諸島及び大東諸島に関する日本国とアメリカ合衆国との間の協定」(沖縄返還協定)である。日本の法令用語としては、沖縄の復帰(おきなわのふっき)という[2]。
背景日本復帰署名運動(1954年)ジョン・F・ケネディ大統領とロバート・マクナマラ国防長官
沖縄県(琉球諸島および大東諸島)は、第二次世界大戦の旧連合国の対日平和条約として1951年(昭和26年)に署名され日本国との平和条約においてアメリカ合衆国の施政権下に置かれるものとされ、同条約は1952年(昭和27年)4月28日に発効した。そこでアメリカは、「行政主席」を行政の長とする琉球政府を設置し、公選の議員で構成される立法機関「立法院」を設立するなど一定の自治を認めたが、最終的な意思決定権はアメリカ政府が握ったままであった。
第二次世界大戦後の沖縄県では、「日本へ復帰すべき」という主張、「独立すべき」という主張、「国連の信託統治下に置かれるべき」という主張があった[3]。
アメリカ施政権下の沖縄の地位は非常に曖昧で、アメリカは琉球列島(南西諸島)が日本の領土であり琉球住民は日本国籍である事を否定してはいなかったが、琉球諸島への出入りは厳しく管理され、日本の施政外であるために渡航にはパスポートが必要であった[3]。また、沖縄の船舶は「国際信号旗D旗」(琉球船舶旗)を掲げて航行したが、国際的には通用していなかった。現に、1962年(昭和37年)にはマグロ漁船がインドネシア海軍から国籍不明船舶として銃撃を受ける第一球陽丸事件が発生した[3]。 1950年(昭和25年)6月25日に北朝鮮が韓国に軍事侵攻したことにより朝鮮戦争が、1960年(昭和35年)12月に南ベトナム解放民族戦線が南ベトナム政府軍に対する武力攻撃を開始したことでベトナム戦争が勃発するなど、1950年代(昭和25年-昭和34年)から1960年代(昭和35年-昭和44年)にかけて東西冷戦が過熱する中で、アメリカの沖縄の扱いは施政権下においての自治から、ソ連や中国、北朝鮮などの東側諸国に対しての抑止力を持った軍事基地、そしてフィリピンやタイの基地と並ぶベトナム戦争の爆撃機拠点および後方支援基地としての重要性を重視する方向に変わっていく。 こうした中で1952年(昭和27年)4月28日にサンフランシスコ平和条約が発効したが、沖縄は日本本土から切り離されることになったため、1953年(昭和28年)1月に沖縄教職員会や沖縄県青年団協議会など23団体が参加して「沖縄諸島祖国復帰期成会」が結成された[3]。しかし、当時、基地と施政権の保持は不可分と考えられていたため、復帰運動は圧力を受け「沖縄諸島祖国復帰期成会」は自然消滅した[3]。 復帰運動は一時沈滞していたが、1950年代後半には軍用地問題などを発端に「島ぐるみ闘争」と呼ばれる抵抗運動が起こり、1960年(昭和35年)4月には沖縄県祖国復帰協議会(復帰協)が結成された[3]。このような動きを受けて、米軍当局は統治政策を軌道修正し、軍用地料の一括払いの断念や外国資本導入促進のためのドル切り替えなど本土(46都道府県)との格差是正に取り組むようになった[3]。
国際情勢
復帰運動「祖国復帰運動」も参照