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沖縄県営鉄道
路線総延長47.8 km
県営鉄道20周年記念列車1930年頃の那覇市地図
沖縄県営鉄道(おきなわけんえいてつどう)は、戦前に沖縄県が沖縄本島内で運営していた鉄道である。
鉄道省側の書類には沖縄県営鉄道と記載されていたが、沖縄県側では1917年まで沖縄県軽便鉄道、それ以降は沖縄県鉄道を正式な名称としていた。また、762mmの軌間を採用した軽便鉄道(けいべんてつどう)であったことから、沖縄県民からは「ケイビン」「ケービン」と通称されていた[1][2]。 沖縄本島に鉄道を敷設する動きは1894年ごろからあり、県外の資本家などが那覇を中心に首里や与那原、佐敷、北谷などを結ぶ鉄道の敷設を相次いで出願した。しかし、後に那覇市内の路面電車として実現した沖縄電気を除き、いずれも資金調達がうまくいかず実現しなかった。 このため、明治末期には県営による鉄道の敷設が考えられるようになり、1913年1月に県議会で与那原線と糸満線の鉄道敷設案が可決。さらに1914年11月には嘉手納線の建設も採択された。 沖縄県はまず与那原線の工事に着手し、1914年12月に開業した。続いて糸満線の建設に着手するはずだったが、第一次世界大戦後の不況の影響で建設資金の調達がうまくいかず、1916年に建設中止が決定する。 1917年7月に所得税法が施行され、所得税から経済援助の名目で国庫補助が行われることが決まると、再び鉄道建設の気運が高まった。 糸満線と嘉手納線の建設順位を巡って県議会は紛糾したが、1917年12月に嘉手納線の着工が決定し、1922年3月に開業した。最後に残った糸満線は1923年7月に開業し、これにより現在の那覇市から嘉手納町、与那原町、糸満市の3方面に延びる路線網が完成した。 1921年3月には、皇太子裕仁親王(後の昭和天皇)がヨーロッパ訪問の途中で沖縄を訪問した際に、与那原線に乗車している。 なお、1920年ごろから戦時中にかけて、嘉手納 - 名護間約42kmを結ぶ名護線の建設計画が何度も持ち上がったものの、ついに実現しなかった。 3線が開業した大正期は、建設費調達のため発行した県債の償還が負担となって経営状況は芳しくなく、一時は県営鉄道の国有化の話も持ち上がっていた。昭和期に入ると経営は安定したものの、道路の整備に伴って民間経営のバスとの競争が激しくなり、県営鉄道でも気動車(ガソリンカー)を導入して対抗した。また、1936年には県営鉄道もバス事業に乗り出し、糸満線とその周辺地域を連絡するバス路線を開業している。 太平洋戦争の末期になると軍事輸送が本格化し、1944年7月には通常ダイヤによる営業運転を終了して実質的な軍用鉄道となる。また、同年10月10日の那覇空襲によって那覇駅が焼失し、さらに12月には糸満線喜屋武 - 稲嶺間で列車爆発事故(沖縄県営鉄道輸送弾薬爆発事故)が発生している。1945年3月には戦争の激化で完全に運行を停止し、その後の連合国軍上陸によって鉄道施設は破壊された。浦添市大平にある沖縄県営鉄道嘉手納線の線路 戦後は朝鮮戦争の勃発による鉄不足でレールが取り集められたうえ、さらに道路や米軍基地の建設などで鉄道敷地自体が分断されてしまい、県営鉄道は事実上消滅した。正式な廃止手続きは行われておらず、サンフランシスコ講和条約が発効した1952年4月28日に地方鉄道法の適用対象から外れている。 なお、終戦直後の1947年11月24日、沖縄民政府(後の琉球政府)知事の志喜屋孝信が米国軍政府(後の米国民政府)副長官のウィリアム・H・クレイグに対して鉄道の敷設について陳情し、軍政府側も当初は鉄道の復旧を志向していたが、1948年以降には道路整備の推進に方針転換したため実現しなかった[3]。この計画では軌間を1067mmとし、かつての与那原線を東海岸沿いに延伸して前原、金武、名護、大宜味あたりに至る路線と、かつての糸満線に相当する路線が考えられていたようである。
歴史
建設まで
開業沖縄県営鉄道の那覇駅(現在の那覇バスターミナル)
その後の経過沖縄戦後の那覇駅。手前側に設置されている外荷台・偏心鋳鋼台車付気動車は、側面の車号と形態からキハ11とわかる1945年6月、米軍により撮影された瓦礫に埋まった12号(元国鉄ケ190形)
年表
1914年(大正3年)12月1日 与那原線那覇 - 与那原間が開業。
1917年(大正6年)7月1日 海陸連絡線那覇 - 桟橋荷扱所間が開業。
1922年(大正11年)3月28日 嘉手納線古波蔵 - 嘉手納間が開業。
1923年(大正12年)7月11日 糸満線国場 - 糸満間が開業。