沖縄アクターズスクール
[Wikipedia|▼Menu]

株式会社沖縄アクターズスクールパレットくもじ内に新設されたレッスンルーム(2023年?)
種類株式会社
本社所在地 日本
900-0015
沖縄県那覇市久茂地1丁目1番1号
設立2023年1月
業種サービス業
法人番号4010401171699
事業内容タレント養成学校、芸能プロダクション
代表者代表取締役CEO 牧野彰宏
取締役COO 牧野アンナ
資本金200万円
特記事項:新社データ
テンプレートを表示

株式会社沖縄アクターズスクール宜野湾市大山にあった自社ビル(2002年?2014年)
種類株式会社
本社所在地 日本
904-0115
沖縄県中頭郡北谷町美浜2丁目5番地23
設立1983年4月
業種サービス業
法人番号3360001009506
事業内容芸能養成スクール
代表者代表取締役校長 牧野正幸(マキノ正幸)
特記事項:旧社データ
テンプレートを表示

株式会社沖縄アクターズスクール(かぶしきがいしゃおきなわあくたーずすくーる)は、沖縄県に拠点を置くタレント養成学校であり芸能プロダクション[1]である。

独自の教育スタイルにより、日本の芸能界へ数多くの歌手・アイドル・タレントを輩出。特に1990年代後半、安室奈美恵を筆頭にJ-POPシーンを彩る様々なグループ・アーティストを送り出したことから、芸能養成学校としてはNSCと並び異例の知名度を誇る。

旧法人は1983年マキノ正幸により設立され、2023年に息子・牧野彰宏と娘・牧野アンナによる新法人が設立された[2]。尚、旧法人は廃業しておらず企業継承でもないため、2023年9月現在、沖縄アクターズスクール(以下、アクターズ)の名を持つ株式会社が2つ存在している。この項目では、特に1990年代後半における状況を中心に、アクターズ自体の歴史と概要・卒業生に関して説明し、系列の横浜校・大阪校・りんくう校についても触れる。生徒であるダンスボーカルグループ「B.B.WAVES」、マキノ正幸が別途開校し最終的にアクターズと合流した「ドリームプラネット・インターナショナル・スクール」については、当該記事を参照すること。
略歴
開校初期

1972年に沖縄へ移住し、那覇市で「ジュエルパレス」というナイトクラブを経営していた、芸能一家「マキノ家」出身のマキノ正幸(以下、マキノ)が、俳優の川地民夫から聞いた「平尾昌晃が経営する芸能学校[注釈 1]が儲かっている」という話に触発され、沖縄で初めての芸能学校として1983年4月に開校した。当初は、マキノの従兄である俳優の長門裕之が理事長として名を連ねていた。最初の入学生は85人[3]

当初は、俳優養成所の要素が強く、マキノが東京から呼び寄せた[4]歌やダンスや演技の専門講師から習うシステムを取り[5]、マキノ自身は経営に徹していたが、開校後まもなく演技コースの講師を務めていた人物が他の講師たちと共に独立してしまったため[6][7]、マキノ自らが音楽理論や演技論の本を読み込み[8]直接教えている時期もあった[9][10]。その時期から、生徒同士、自分の歌やダンスを披露するようになり、次第に自主練習となり、お互いに批評し教え合うようになり[11]、後述するアクターズ・メソッドのベースとなった。

初期には、ぬいぐるみショー[12]を上演したこともあった。

1988年5月から1年間に渡り、琉球放送で出演者全員が生徒というローカル番組「オキナワクラブハートキャッチTV」が放映された。協力プロダクションはポニーキャニオン。「夕やけニャンニャン」終了直後の秋元康が監修としてクレジットされている[13]

1989年8月1日に放送されたローカルテレビ番組『HOTNIGHTおきなわ愛ランド』夏休みちびっこカラオケ大会(琉球放送)に、小学6年生当時の安室奈美恵や、現MAXのMina新垣寿子、スクール入学前の今井絵理子[注釈 2]が出場し、安室が優勝した。生徒たちが出場することは、校長のマキノには内緒であった[14]

1995年までの定期公演では、ミュージカルを上演していた。定番は「ピーターパン」で、特に1992年5月の上演では、主演のピーターパン安室奈美恵が務め、ウエンディ知念里奈が演じ[15]、後にMAXSPEEDとなるメンバーも出演した[16]。後に今井絵理子も、ピーターパン役を務めている[17][18]
隆盛期

1994年、マキノは娘でありSUPER MONKEY'Sの元メンバーであった牧野アンナ(以下、アンナ)にレッスンの現場を一任するようになる[19]

1995年、安室奈美恵 with SUPER MONKEY'Sの「TRY ME?私を信じて?」が大ヒット。これによりアクターズの名が全国に広まり、入学の問い合わせが全国から殺到した[20]

1996年、沖縄テレビ放送でレギュラー番組「BOOM BOOM」がスタート。同時期にオーディションバラエティー「ASAYAN[注釈 3]」が放送されていたこともあり、その人気にも影響を受け、デビュー予備軍である「B.B.WAVES」が地元沖縄を中心にファンを増やし、生徒をモデルにした漫画作品も出版されるなど、その知名度は全国に轟いた。また、番組内で映し出されるアンナの指導ぶりにも注目が集まり、アンナは“カリスマインストラクター”としてスポットライトを浴びるようになった[21]

1997年には、後に黒木メイサとして活躍する少女がスクールのオーディションでグランプリを獲得している[注釈 4][22]

安室奈美恵のブレイク以降、アクターズは1998年にかけてライジングプロダクションとの関係を強めた[23]。マキノはライジングプロ平哲夫社長にプロモーションの全権を一任し[24]、「マキノが育て平が売り出す」というビジネスモデルを構築、J-POPシーンで現在も活躍するアーティストや実力派の俳優を数多く誕生させた。しかし「ひとつの芸能プロに限定すると、どうしても、そのプロダクションの趣味、指向、理念に合った子しかデビューできなくなる」[25]との考えから、1998年よりアミューズと協力関係となる。

1998年8月、日本武道館での単独コンサートを開催。約8,000人が客席を埋め尽くした[26]
衰退期

1997年頃からマキノは、仕事のフィールドを「芸能」から「教育」に広げ始める[27]。当時26歳の白井智子を校長に迎え、インターナショナル・スクールの創立を計画。私立のフリースクールとして[28]、1999年4月24日にドリームプラネット・インターナショナル・スクール(以下、ドリームプラネット)を開校させた[29]

日本武道館での単独コンサート以降、アクターズと“芸能界”の間には次第に距離が出来はじめ、デビューへの道が閉ざされた生徒たちは徐々に辞めていき[30]、一時期は全国に最大で1,000人近くいたアクターズの生徒数は、2002年に入ると二桁台に落ち込み[31]、更に、マキノとアンナの間に軋轢が生じる出来事もあり[32][33]、この年のうちにアンナはスクールから退職[34]、ダウン症児者のためのダンススクール「LOVE JUNX」を立ち上げた[35]

一方、2004年頃から、アクターズはドリームプラネットと合同で授業やレッスンを行うようになり[36]、2005年4月、ドリームプラネットの校長に就任した村井優紀がアクターズのプロジェクトにも参画するようになる[37]

2006年3月に、村井が脚本・演出を手掛けアクターズのスクール生が出演するミュージカル「S.T.A.R.」を上演、また、同10月から、それを下敷きにしたテレビ番組をスタートさせた[38]。詳しくはドリームプラネットの記事を参照すること。

2008年10月には、沖縄県に本店を置くキャタリスト証券を主幹事として日本証券業協会グリーンシートエマージング銘柄に登録されるも[39][40]、2009年11月には指定が取り消されている[41]

また、2009年には、大阪の芸能プロダクション「創叡」がアクターズと業務提携し、創叡側のWEBサイトでアクターズ生が沖縄所属タレントとして掲載される一方[42]、創叡が経営していたSTSダンススタジオとアクターズ大阪校が合併し、STS沖縄アクターズスクール(後にBBアクターズスクールと改称)を開校[43]、独自にタレント育成を行った。2010年10月に提携を解消[44]


次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:179 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef