沖 守固(おき もりかた、1841年8月13日(天保12年6月27日) - 1912年10月7日)は、幕末の鳥取藩士・絵師、明治の内務官僚、政治家。元老院議官、貴族院議員、錦鶏間祗候、男爵。幼名は鶴、貞一郎、探(丹)三。号は九皐。目次
1 経歴
2 栄典
3 作品
4 親族
5 脚注
6 参考文献
7 ギャラリー
8 外部リンク
経歴、萩原没後は大橋訥庵に学ぶ。文久元年(1861年)沖家八代目を継ぐ(支配米30俵5人扶持、その外に年銀20枚)。同年11月には妹のちゑが、藩主池田慶徳の夫人・寛子のお付小姓として召し出されている。文久3年(1863年)御国勝手を命じられ4月に鳥取に移ったが、6月には藩主の伴として上京そのまま滞留を命じられ、周旋方として政務に奔走することになる。
明治2年(1869年)、徴士として新政府に出仕。鳥取藩権大参事、大蔵省七等出仕などを歴任。明治4年11月(1871年12月)、岩倉使節団に随行し欧米に遣わされ、自費で留学のためイギリスに留まった。
1878年1月に帰国し、同年8月、内務省に入り内務少書記官となる。1879年12月、群馬県大書記官に転じ、さらに外務省に移り少書記官・会計局長を務めた。
1881年11月、神奈川県令に就任し、神奈川県知事、長崎県知事(赴任せず)を歴任。1890年1月、元老院議官となり、同年9月29日、帝国議会開設に伴い貴族院勅選議員に任じられ[1]、死去するまで在任。
1891年4月、滋賀県知事に就任したが、翌月5月に発生した大津事件により辞任。以後、和歌山県、大阪府、愛知県の各知事を務めた。1900年5月、男爵を叙爵。1903年9月28日、錦鶏間祗候に任じられた[2]。 作品名技法形状・員数所有者年代款記・印章備考
栄典
位階
1886年(明治19年)10月28日 - 従四位[3]
1897年(明治30年)12月24日 - 正四位[4]
1906年(明治39年)12月27日 - 従三位[5]
勲章等
1889年(明治22年)11月25日 - 大日本帝国憲法発布記念章[6]
1890年(明治23年)12月26日- 勲三等瑞宝章[7]
1900年(明治33年)
5月9日 - 男爵[8]
6月30日 - 勲二等瑞宝章[9]
1912年(大正元年)10月7日 - 勲一等瑞宝章
外国勲章佩用允許
1885年(明治18年)6月9日 - ハワイ王国:王冠勲章ナイトグランドオフィシル[10]
作品
鳥居元忠陣中図絹本着色1幅個人(鳥居家伝来品)款記「九皐沖鶴薫沐謹寫」[11]
⇒大楠公図紙本着色1幅鳥取県立博物館1856年 (安政3年)
⇒高士雅会図紙本着色1幅鳥取県立博物館1857年 (安政4年)
⇒肥後谷山水図絹本着色1幅鳥取県立博物館1867年 (慶応3年)
⇒詫間樊六之像紙本着色1幅鳥取県立博物館款記「九皐沖守固(花押)」
親族
子息 沖貞男(貴族院男爵議員)[12]
脚注^ 『官報』第2182号、明治23年10月6日。
^ 『官報』第6074号、明治36年9月29日。