沖守固
[Wikipedia|▼Menu]
沖守固

沖 守固(おき もりかた、1841年8月13日天保12年6月27日) - 1912年10月7日)は、幕末鳥取藩士絵師明治内務官僚政治家元老院議官貴族院議員、錦鶏間祗候男爵。幼名は鶴、貞一郎、探(丹)三。号は九皐。目次

1 経歴

2 栄典

3 作品

4 親族

5 脚注

6 参考文献

7 ギャラリー

8 外部リンク

経歴

鳥取藩士・江戸詰絵師、沖一峨の長男として江戸で生まれる。父から画を学ぶ一方、漢文を萩原緑野、萩原没後は大橋訥庵に学ぶ。文久元年(1861年)沖家八代目を継ぐ(支配米30俵5人扶持、その外に年銀20枚)。同年11月には妹のちゑが、藩主池田慶徳の夫人・寛子のお付小姓として召し出されている。文久3年(1863年)御国勝手を命じられ4月に鳥取に移ったが、6月には藩主の伴として上京そのまま滞留を命じられ、周旋方として政務に奔走することになる。

明治2年(1869年)、徴士として新政府に出仕。鳥取藩権大参事大蔵省七等出仕などを歴任。明治4年11月1871年12月)、岩倉使節団に随行し欧米に遣わされ、自費で留学のためイギリスに留まった。

1878年1月に帰国し、同年8月、内務省に入り内務少書記官となる。1879年12月、群馬県大書記官に転じ、さらに外務省に移り少書記官・会計局長を務めた。

1881年11月、神奈川県令に就任し、神奈川県知事、長崎県知事(赴任せず)を歴任。1890年1月、元老院議官となり、同年9月29日、帝国議会開設に伴い貴族院勅選議員に任じられ[1]、死去するまで在任。

1891年4月、滋賀県知事に就任したが、翌月5月に発生した大津事件により辞任。以後、和歌山県大阪府愛知県の各知事を務めた。1900年5月、男爵を叙爵。1903年9月28日、錦鶏間祗候に任じられた[2]
栄典
位階


1886年(明治19年)10月28日 - 従四位[3]

1897年(明治30年)12月24日 - 正四位[4]

1906年(明治39年)12月27日 - 従三位[5]

勲章等


1889年(明治22年)11月25日 - 大日本帝国憲法発布記念章[6]

1890年(明治23年)12月26日- 勲三等瑞宝章[7]

1900年(明治33年)

5月9日 - 男爵[8]

6月30日 - 勲二等瑞宝章[9]


1912年(大正元年)10月7日 - 勲一等瑞宝章

外国勲章佩用允許


1885年(明治18年)6月9日 - ハワイ王国:王冠勲章ナイトグランドオフィシル[10]

作品

作品名技法形状・員数所有者年代款記・印章備考
鳥居元忠陣中図絹本着色1幅個人(鳥居家伝来品)款記「九皐沖鶴薫沐謹寫」[11]
大楠公図紙本着色1幅鳥取県立博物館1856年 (安政3年)
高士雅会図紙本着色1幅鳥取県立博物館1857年 (安政4年)
肥後谷山水図絹本着色1幅鳥取県立博物館1867年 (慶応3年)
詫間樊六之像紙本着色1幅鳥取県立博物館款記「九皐沖守固(花押)」

親族

子息
沖貞男(貴族院男爵議員)[12]

脚注^ 『官報』第2182号、明治23年10月6日。
^ 『官報』第6074号、明治36年9月29日。


次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:37 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef