沈熏
沈熏(1938年以前)
各種表記
ハングル:??
漢字:沈熏
発音:シム・フン
日本語読み:しん くん
2000年式:
MR式:Sim Hun
Sim Hun
各種表記(本名)
ハングル:???
漢字:沈大燮
発音:シム・テソプ
日本語読み:しん だいしょう
2000年式:
MR式:Sim Daeseop
Sim Taes?p
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沈 熏[1][注釈 1](しんくん、1901年9月12日 - 1936年9月16日)は朝鮮(大日本帝国統治下)の小説家。映画脚本家。本名は沈大燮。号は熏(少年時代は金剛生、中国留学時代は白波)。本貫は青松[4]。啓蒙作家とも称される。代表作は『常緑樹』。
略歴。長兄の沈友燮
1930年代には、日本側の圧力を受け、受難の日々を送った。『朝鮮日報』に連載した『東方の愛人』が当局の検閲で中止を余儀なくされ、同誌に『不死鳥』を連載したが、これも当局から掲載停止処分を受けた。1933年に発表しようとした詩集は、その半分以上を検閲で削り取られた。経済的に不安定であった沈は、京城を離れ忠清南道唐津郡に創作に打ち込む。名作『常緑樹』は「筆耕舎」と名づけられた新築の家で書き上げられた。この作品が、東亜日報創刊15周年記念懸賞に当選する。賞金の一部で「常緑学院」を設立。常緑学院は後の常緑国民学校の母体となった。沈は『常緑樹』の映画化に取り掛かり、脚色、配役まで整えたが、またも当局の妨害に遭い、実現できなかった。この頃、腸チフスにかかり、大学病院に入院する。1936年9月16日、腸チフスが原因で逝去した。その遺骸は京畿道龍仁郡木枝面新鳳里の墓に埋葬されている。
年譜
1901年9月12日、現ソウル鷺梁津に生まれる。
1915年、校洞普通学校を卒業、京城第一高等普通学校に進学。
1917年3月、王族の李海昇の妹と結婚する。沈がその妻を海暎と名づける。
1919年3月、三・一運動に加わり投獄される(6ヶ月後、執行猶予で釈放)。
1920年冬、中国へ亡命。
1921年、浙江大学劇文学科に入学。後に中退。
1923年、帰国。「劇文会」に参加。
1924年、東亜日報社に入社。李海暎と離婚。
1926年、「鉄筆倶楽部事件」の関連で東亜日報社を辞める。
1927年、渡日。京都日活撮影所で村田実監督の指導で映画を勉強する。6ヵ月後帰国。
1928年、朝鮮日報社に入社。
1928年12月14日、安貞玉と再婚。
1931年、朝鮮日報社を退職。京城放送局にしばらく勤めるが、まもなく退職。
1932年、忠清南道唐津郡松嶽面富谷里に移る。
1932年、長男、在建が生まれる。
1933年8月、朝鮮中央日報社に入社するが、3,4ヶ月後、唐津に戻る。
1934年、「筆耕舎」を建てる。
1934年、次男、在光が生まれる。
1935年、『常緑樹』が東亜日報創刊15周年記念懸賞に当選する。賞金の一部で「常緑学院」を設立。
1936年、三男、在昊が生まれる。
1936年9月16日午前8時、腸チフスのため、逝去。
作品一覧
小説
東方? 愛人(1930) 未完
不死鳥(1930) 未完
永遠? 微笑(1933)
織女星(1934)
常克(1935)
?公? 最後(1936)
大地(1936) ※パール・バック著『大地』の翻訳
詩集
??? ??(1932) 1932年に出刊しようとしたが、当局の妨害に遭う。沈の死後、刊行される。
映画関連
??(1926~)
??? ? ?(1927)
日本語で読める作品
学塾常緑樹の会訳『常緑樹』龍溪書舎、1981年
金炳三訳「その日が来たら」『20世紀民衆の世界文学』三友社出版、1990年
脚注
注釈^ 当時の出版物では「沈熏」と載っていたが[2]、一部の文献では「沈薫」と記述している[3]。
出典^ 『沈熏』 - コトバンク
^ “ ⇒??? ?? / ??”. 韓国民族文化大百科事典. 2022年6月30日閲覧。
^ 『沈薫』 - コトバンク
^ “ ⇒(38)?? ??(松沈氏)-212,717?” (朝鮮語). ???????? (2014年8月26日). 2022年8月16日閲覧。
関連項目
日本における検閲
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