沈従文
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沈従文
沈従文(中央)、右は周有光
出身地:湖南省鳳凰庁
職業:作家
各種表記
繁体字:沈從文
簡体字:沈从文
?音:Sh?n Congwen
和名表記:しん じゅうぶん
発音転記:シェン・ツォンウェン
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沈 従文(しん じゅうぶん、1902年12月28日 - 1988年5月10日)は、20世紀中国作家。小説や散文で知られる。代表作に小説「辺城」がある。中華人民共和国では作品を発表せず、博物館で古代の文物の研究を行った。
生涯

沈従文は湖南省鳳凰庁(現在の湘西トゥチャ族ミャオ族自治州鳳凰県)の軍人の家に生まれた[1]。はじめ、名は沈岳煥(しん がくかん[2])。湘西の土地は漢族トゥチャ族ミャオ族が住み、沈従文の父方は漢族だったが、母親の黄素英はトゥチャ族であり、また父方の祖母はミャオ族だった[3]。黄素英の兄の黄鏡銘の孫に画家の黄永玉がいる。祖父の沈宏富は貴州提督まで務めた。幼少年期は私塾や学校に行くには行ったが、従兄に連れられて学校をさぼっては自然や山野、水流のなかに浸った[4]

彼も小学校卒業後1917年秋には地方の軍閥軍に入隊し、数年間軍閥軍の文書係として湖南・湖北・四川・貴州の各地を転戦して回り、見聞を広め不思議な体験をした。のちに、伝奇的色彩に富む多彩な作品を産み出す源泉となった。文学革命に影響されて文学者になろうと思いたち、軍隊から抜け、1923年の夏北京に出て沈従文と名を改めた。文学修行の窮状を訴える手紙を郁達夫が読み、彼の推薦で1924年に処女作「一封未付郵的信」を『晨報』副刊上に発表した。1925年の「市集」が徐志摩に高く評価され、エキゾチシズムと抒情性で人気を博した[5]

失業生活ののち?州で警察署の事務員、収税吏などを経、17歳の時に一つの恋愛を経験したのだが、母に多額の金銭上の迷惑をかけることになり、常徳へ逃げ出す。安宿の代金が払えなくなり、常徳から辰修へ。書記をしていた従弟の所へ転がり込んでいるうちに書記の職にありつき、湖南・湖北・四川・貴州4省の軍隊生活を送る。この生活の中で、歴史を学ぶ機会を得、芸術についての初歩的な知識を得たのであった。かくして内面的な精神生活に変化が起こり、自分の生きる道を探すようになり、五四運動の影響を受けた印刷工との出会いを契機に、自分も大きく感化されて北京に旅立つ。1928年、26歳の青春であった[6]

1928年には当時の文学の中心であった上海に移り、『新月』に『不思議の国のアリス』(1922年に趙元任によって中国語訳されている)をパロディ化した長編小説「阿麗思中国遊記」を発表した。上海では胡也頻・丁玲とともに1929年に雑誌を創刊したが、半年で廃刊になった[5]。この時期に短編小説「蕭蕭」、「丈夫」(夫)などを発表している。1929年に中国公学国文科講師、1930年に武漢大学の国文科助教、1931年に青島大学国文科講師の職についた。

1933年には北京(北平)に戻り、中国公学時代の教え子だった張兆和と結婚した。北平では大公報文芸副刊の編集長の仕事についた。1934年、沈従文は母親の病気のために故郷に戻った。このとき張兆和との間でかわした手紙をもとに散文集『湘行散記』が書かれた。同年、故郷の湘西がモデルの辺境の町を舞台とし、ミャオ族の歌垣などを折りこんだ悲恋物語「辺城」を発表した。この作品は日本を初め欧米諸国に翻訳され世界的に知られる。

日中戦争中は奥地に移り、西南連合大学の師範大学副教授の職につき、教科書の編纂を行った。

戦後の1945年に長編小説『長河』の第1巻を出版した(1938年に『星島日報』星座副刊に連載したものを元にする)。本来4巻になる予定だったが、第1巻のみで終わった。

戦後は北京大学の国文科教授になったが、郭沫若は1948年に香港で「斥反動文芸」という論文を発表し、その中で沈従文の文学を文字で書かれたヌード画とし、ピンク(桃紅色)の反動文芸と決めつけた。1949年には沈従文の打倒を訴える壁新聞が北京大学に張られた。沈従文は自殺未遂をおこした後に鬱病で入院した。退院するとすでに国文科教授の職はなくなっており、沈従文は北京大学博物館、のちに北京歴史博物館で文物の研究を行った。その後も沈従文は文学作品を書いたが、公刊されることはなかった[7]。そして以後文筆を断った。

文化大革命では再び批判され、蔵書をすべて失い、1969年から1972年まで湖北省咸寧県双渓の五七幹部学校に送られた。

文物研究の成果は1981年の『中国古代服飾研究』として出版された。

1983年ノーベル文学賞候補に推されるが30年間作品がなく、受賞を逃す。アメリカ合衆国のジェフリー・キンクリー(中国名は金介甫)は沈従文の研究者として知られ、スウェーデン中国学者ヨーラン・マルムクヴィスト(中国名は馬悦然)とともに沈従文をノーベル文学賞の候補として推薦したとされ[8]、1988年にはほぼ受賞者に決まっていたが、同年に沈従文が死去したために受賞を果たせなかったという[9]。実際に受賞したのはエジプトナギーブ・マフフーズであった。

魯迅が中国人の性格の欠点を描いたのに対し、沈従文は下層中国人の美点を描いた[10]


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