汾州_(唐)
[Wikipedia|▼Menu]

汾州(ふんしゅう)は、中国にかつて存在した南北朝時代から明代にかけて、現在の山西省中部に設置された。
概要

434年延和3年)、北魏により吐京鎮が立てられた。488年太和12年)、吐京鎮は汾州と改められた。その州治は蒲子城に置かれた。汾州は西河郡・吐京郡・五城郡・定陽郡の4郡10県を管轄した[1]

北斉のとき、汾州は南朔州と改称された。

北周のとき、南朔州は介州と改称された。

583年開皇3年)、が郡制を廃すると、介州の属郡は廃止された。607年大業3年)に州が廃止されて郡が置かれると、介州は西河郡と改称された[2]617年義寧元年)、西河郡のうち介休平遥の2県が分離されて介休郡が置かれた。

618年武徳元年)、により介休郡は介州と改められ、西河郡は浩州と改められた。620年(武徳3年)、浩州は汾州と改称された。627年貞観元年)、介州が廃止され、介休・平遥の2県は汾州に併合された。742年天宝元年)、汾州は西河郡と改称された。758年乾元元年)、西河郡は汾州の称にもどされた。汾州は河東道に属し、西河孝義・介休・平遥・霊石の5県を管轄した[3]

のとき、汾州は河東路に属し、西河・介休・孝義・平遥・霊石の5県を管轄した[4]

のとき、汾州は河東北路に属し、西河・介休・孝義・平遥・霊石・温泉の6県と郭柵・洪山の2鎮を管轄した[5]

のとき、汾州は冀寧路に属し、西河・介休・孝義・平遥の4県を管轄した[6]

1376年洪武9年)、により汾州は山西等処承宣布政使司に直属した。1595年万暦23年)、汾州は汾州府に昇格した。汾州府は山西省に属し、直属の汾陽・孝義・平遥・介休・石楼の6県と永寧州に属する寧郷県、合わせて1州7県を管轄した[7]

のとき、汾州府は山西省に属し、汾陽・孝義・平遥・介休・石楼・臨・寧郷・永寧州の1州7県を管轄した[8]

1913年中華民国により汾州府は廃止された。
脚注^魏書』地形志二上
^隋書』地理志中
^旧唐書』地理志二
^宋史』地理志二
^金史』地理志下
^元史』地理志一
^明史』地理志二
^清史稿』地理志七










唐朝の行政区分740年 開元28年)
京畿
関内道

京兆府

華州

同州

坊州

丹州

岐州

?州



隴州

寧州

原州

慶州

?州

延州

綏州

銀州

夏州

霊州

塩州

豊州

会州

宥州

勝州

安北大都護府

都畿道
河南道

河南府

鄭州

陝州

汝州

懐州

許州

?州

蔡州


次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:55 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef