汪兆銘
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汪 兆銘


中華民国
初代 国民政府主席
任期1940年11月30日1944年11月10日
中華民国
初代 行政院長
任期1940年3月20日1944年11月10日
中華民国
初代 国民政府主席
任期1925年7月1日1926年3月23日
中華民国
第4代 行政院長
任期1932年1月29日1935年12月16日
主席林森
中国国民党
初代 中央執行委員会常務委員会主席
任期1939年3月28日1944年11月10日
中国国民党
初代 副総裁
任期1938年4月1日1939年3月28日
総裁?介石

出生1883年5月4日
広東省広州府三水県
(現:仏山市三水区
死去 (1944-11-10) 1944年11月10日(61歳没)
日本 愛知県名古屋市
政党 中国国民党
中国国民党 (汪兆銘政権)
出身校 和仏法律学校
配偶者陳璧君1891年-1959年
子女汪文嬰(長男)
汪文惺(長女)
汪文彬(次女)
汪文恂(三女)
汪文靖(次男)
汪文悌(三男)

汪 兆銘(汪 精衛)
職業:政治家・革命家
各種表記
繁体字:汪 兆銘(汪 精衛)
簡体字:汪 兆?(汪 精?)
?音:W?ng Zhaoming (W?ng J?ngwei)
ラテン字:Wang Chao-ming (Wang Ching-wei)
注音二式:W?ng Jauming
和名表記:おう ちょうめい(おう せいえい)
発音転記:ワン ジャオミン (ワン ジンウェイ)
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汪 兆銘(おう ちょうめい、ワン・ジャオミン、1883年5月4日光緒9年3月28日〉 - 1944年民国33年〉11月10日)は、中華民国政治家[1]行政院長(第4代)・中国国民党副総裁[2]辛亥革命の父、孫文の側近として活躍して党の要職を占めた。は季新。は精衛(中華圏では「汪精衛」と呼ぶのが一般的である)[注釈 1][3]

広東省広州府三水県(現:仏山市三水区)の生まれ[1][2][4]。原籍は浙江省紹興府山陰県[5]知日派として知られ、1940年3月、南京日本傀儡政権である汪兆銘政権を樹立し、同年11月には正式に主席となった[2][4]1944年名古屋にて病死[2][4]。遺体は南京の梅花山に埋葬されたが、戦後に?介石政権によって爆破された[6][7]。著作に『汪精衛文存』などがある[2]
生涯
生い立ち

汪兆銘は、1883年光緒9年)、汪?(号は省斎)の四男、10人兄弟の末子として広東省広州府三水県に生まれた[5]。没落した読書人の家庭に育った彼は、幼少時より俊秀さを謳われた人物である[5]

曾祖父の汪?(1756年-1832年)および祖父の汪雲(1786年-1844年)はともに浙江省紹興府山陰県に本籍があり、同地に墳墓もあって、官途に就いていた[5]。汪兆銘の父の汪?(1824年-1897年)は一族の一人が広東省で知県をしていたところから、それを頼って広東に移住してきた人物であった[5]。父は同郷の盧夫人とのあいだに一男三女、広東出身の呉夫人とのあいだに三男三女をもうけた[5]

浙江生まれの父は広東語を聴き取ることはできても話すことはできなかったといわれる[5]。また、官途には就かず、商売を営んではいたが、読書人の家系だけあって学識深く、幼い汪兆銘に古典教育をほどこした[4][5]。書塾から帰った汪兆銘に必ず読書書道を課し、王陽明の『伝習録』を大声で朗読させたり、陶淵明陸游の詩を暗唱させたりなどの課題を死ぬ直前までつづけた[5]。のちに卓越した詩文や書で知られる汪兆銘の文人としての資質は、こうした幼年期の父親の薫陶の賜といえるが、一方で幼い頃から陽明学や、そこで強調される知行合一の考え方に親しんだことが、のちの彼の革命思想や行動様式にあたえた影響もまた看過できない[5]

汪兆銘の母は、汪?の後妻の呉氏で夫より30歳も若かった[4][5]。汪兆銘は父親以上にこの母を深く愛し、また、母の生活上の苦労には深い同情を寄せていた[5]。76歳まで生きた父が死去する前年(1896年)、母は40代なかばで死去している[5]。汪兆銘は、母親への思慕と同情から、伝統的な家族制度とくに婚姻制度に反感をいだくようになり、恋愛結婚を是とする価値観をもつようになったという[5]

10代前半で父母を相次いで亡くした汪兆銘は、長兄を頼って生活せざるを得なくなったが、遺産もろくになかったところから早々と自立を迫られた[5]。10代後半には書塾の教師となったが、その頃、同腹の兄2人も相次いで亡くしたことから、2人の兄嫁と1人のの面倒もみなければならなくなり、一家の家計を支えることとなった[5]。彼はこの時期のことをふりかえって「貧しく、悲しく、痛ましいものであった」と回想している[5]
日本留学と革命運動への参加

生活に追われて近代教育を受けられなかったことを嘆いていた汪兆銘が転機をむかえたのは、1904年(光緒30年)、科挙(中国の高級官吏任用試験)に合格し、清朝広東省政府の官費留学生に選ばれて、日本への派遣が決まったことであった[4][5][8]日露戦争中の同年9月、汪兆銘は東京市和仏法律学校法政速成科(現在の法政大学)に進学した[1][2][4][5][8]。速成科は、中国人留学生のために特設されたものであり、授業は通訳を通じて行われていたので日本語を知らなくても法学の授業を理解することができた[5]。法政で同時期に学んだ人物に同郷の胡漢民や朱執信らがいる[8][注釈 2]

日露戦争について汪は「心から日本を支持する」と述べ、一東洋人として日本の勝利に歓喜した[10]。また、「日本国民の熱烈な愛国心は、若い私の胸中を非常に燃え立たせた」とのちに述懐している[5]

留学中の汪兆銘は、梅謙次郎富井政章山田三良らの講義を好んで聴いたが、それにもまして彼に大きな影響を与えたのは憲法学の講義であった[5]。それまで「君臣の義」といった儒教的価値観に縛られていたのに対し、憲法学によって国家の観念や主権在民の思想を学ぶにつれ、汪兆銘は革命への傾斜を強めていったのである[5]。一方、彼は明治維新歴史に興味を持ち、特に西郷隆盛勝海舟の2人には強く惹かれて、彼らに関する書籍を読みあさった[5]孫文

留学中、汪は孫文の革命思想に触れて「興中会」(1894年結成)に入った。革命派は、広東省出身者の多い興中会のほか、湖南省出身者の多い「華興会」(1903年結成)、浙江省出身者の多い「光復会」(1904年結成)があり、それぞれ横の連絡を欠きつつ、武装蜂起をくり返していた[5]。日露戦争における日本の勝利やロシア帝国における血の日曜日事件などにより、在日中国人のあいだでは革命の気分が高まり、宮崎滔天らの奔走もあって興中会・華興会・光復会の大同団結が図られ、1905年8月、3つの革命会派は孫文の来日を機に中国同盟会に合流した[1][2][4][5][8][11]。このときの孫文の演説は若い汪兆銘の心を打ち、かねてより孫文に対して抱いていた信頼と尊敬の念は不動のものとなった[5]。孫文もまた、汪兆銘を厚く信頼し、中国同盟会評議部長に抜擢し、のちには執行部の書記長を兼務させた[5][注釈 3]。なお、同盟会の会章は、黄興陳天華宋教仁馬君武・汪兆銘ら8人の起草によるものである[11]

中国革命同盟会は、「民族・民権・民生」の三民主義を綱領として掲げた[12]。1905年11月には、中国同盟会の機関誌『民報』が発行されることになり、汪兆銘は章炳麟を補佐して、胡漢民 ・陳天華・朱執信・宋教仁ら同志とともに機関紙の編集スタッフを務め、この頃から「精衛」という号を用いるようになった[4][5][8][11][注釈 4]


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