池田長頼
[Wikipedia|▼Menu]

 凡例池田長頼
時代江戸時代前期
生誕不明[注釈 1]
死没寛永9年4月6日1632年5月24日[2]
別名助三郎(通称[3]
官位従五位下豊後守[3]
幕府江戸幕府 書院番[3]
主君徳川秀忠家光
氏族池田氏(長吉流)
父母父:池田長吉 母:伊木忠次
兄弟長幸森寺長貞長政、長頼、長賢
久留島通春
子長忠、長氏
テンプレートを表示

池田 長頼(いけだ ながより)は、江戸時代前期の大身旗本書院番を務め、3000石を知行した。1632年、兄である備中松山藩主・池田長幸の後継と相続をめぐる問題から刃傷事件を起こし、親族の脇坂安経を殺害したため、切腹を命じられた。
生涯

池田長吉の四男として誕生[注釈 1]。長吉は池田恒興の三男で、関ヶ原の合戦後に因幡鳥取藩6万石の藩主となった。

慶長6年(1601年)、長頼は徳川秀忠に召し出され、書院番となって知行3000石を与えられた[3]。のちに西の丸[注釈 2]に出仕する[3]寛永4年(1627年)、従五位下豊後守に叙任[3]

なお、慶長19年(1614年)に父の長吉が没し、兄の池田'"`UNIQ--templatestyles-0000000C-QINU`"'長幸(ながよし)が跡を継いでいる。元和3年(1617年)、長幸は備中松山藩6万5000石に移された。
刃傷事件

寛永9年(1632年)4月4日、池田長幸(46歳)の容態が悪化したため、継嗣[4]や遺領の分知[5]についての遺言を定めて後事を託すべく、親族が招集された[4]

長幸の嫡子(後継予定者)は長男の長常(24歳)であるが、長幸とは不和であった[6]。長幸は、長常が「病者」であるとともに、自らの意にかなわないとして[3]、6万5000石の領知の半分(『徳川実紀』によれば過半[6])を二男の長純に分ける意向であった[7]。親族たちはこれに同意したが[2]、長頼だけは納得しなかった[2][4]

長頼の主張は、遺領は長男に残らず譲るべきであり、二男に過半を与えるのは道理が通らないというものであった(『徳川実紀』)[6][注釈 3]。親族たちは長頼を排除して評議に加わらせなかった[2][6]。憤慨した長頼は会合の席に押しかけて[6]刃傷に及び、脇坂安経信濃飯田藩主・脇坂安元の継嗣)を殺害した[2][4]

『寛政譜』の脇坂家の譜によれば、安経の兄である脇坂安信美濃国内1万石領主。長純夫人の実父)は長頼を追いかけ、階上で斬り合いとなったが、安信は傷を負った上に階段から転落して気絶した[4]

『徳川実紀』の記述によれば、長頼はまず長純に斬りかかり、長純は逃れた。その舅である脇坂安信が応戦し、長頼に斬られて負傷した安信は離脱した。また長頼は、居合わせた安経を斬殺した。長頼自身は傷を負うことなく、長幸の屋敷に立て籠った。屋敷の外にいた親族たちの従者は驚いて玄関から乱入しようとし、長幸の家臣たちがこれを阻止しようとするなど「騒動もってのほか」の事態となった。このことを聞きつけた縁者の堀直寄越後村上藩主。長常正室の父[2][8][注釈 4])が、従者300人に棒を持たせて駆けつけ、双方を鎮めて事態を収拾した[6]

長頼は、書院番の同僚4人(能勢頼隆・頼永・頼之兄弟[注釈 5]および山口光正)の監視下に置かれた[6]。4月6日[4]、脇坂安経を殺害し、多数を負傷させたことを罪として幕府は長頼に死を命じ、長頼は切腹した[6]
刃傷事件の余波

関連略系図

池田長吉 池田長幸      池田長常
         
                   

     池田長頼   堀直寄 女子
  
              池田長純
      
           脇坂安元     
  
           脇坂安信 女子
  
           脇坂安経 水野成言
 
         池田長信      
 
              女子
      
         池田長重     
 


池田家

幕府は長頼に死を命じた一方、長頼の主張は道理があると認めた[6]。池田長幸は4月7日に死去[3]。8月26日、長常が家督とともに遺領のすべてを相続することが認められた[2]。池田長純(のち池田長教)の家はその後脇坂家に仕え、龍野藩(脇坂安政のとき飯田から移封。


次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:33 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef