池田貴族
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池田 貴族
出生名池田 貴(いけだ たかし)
生誕 (1963-05-08)
1963年5月8日
出身地 日本 愛知県名古屋市
死没 (1999-12-25) 1999年12月25日(36歳没)
学歴愛知県立千種高等学校卒業
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ロック

ポップ・ロック

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歌手

作詞

担当楽器

ボーカル

ドラムス

活動期間1987年 - 1999年
レーベル

ワーナー・パイオニア

ビクターエンタテインメント

著名な家族池田美夕(娘)
事務所ホリプロ
共同作業者

remote

Holy Noiz

公式サイト ⇒池田貴族心霊研究所

池田 貴族(いけだ きぞく、1963年5月8日 - 1999年12月25日)は日本歌手評論家作家、心霊研究家。本名は池田 貴(いけだ たかし)。

愛知県名古屋市出身。愛知県立千種高等学校卒業。1989年よりTBS系バラエティ番組『平成名物TV』内の1コーナー「三宅裕司のいかすバンド天国」に出演して脚光を浴び、翌1990年ロックバンドであるremoteボーカリストとしてシングル「NO!」でデビュー。音楽関連以外にも心霊研究家として、テレビ番組出演や書籍の出版、CDやビデオ制作などの活動を行う。

所属事務所はホリプロ。血液型はAB型。中日ドラゴンズのファンであり、『機動戦士ガンダム』シリーズのファンでもあった。晩年は肝細胞癌のため数回に亘る手術を行っており、癌との闘病を記した書籍を上梓している。娘はインディーズ歌手の池田美夕。
略歴
生い立ち

1963年5月8日愛知県名古屋市にて誕生[1]。母親曰く池田はかなりの難産であり、誕生の直後に全く泣かなかったため慌てた助産婦が足を持って逆さに吊るし、臀部を叩いたところやっと泣き始めたという[1]。池田は両親の長男として誕生、母親には過去に妊娠の経験があったが子宝には恵まれなかった[2]。池田は貴(たかし)と名付けられ本名は池田貴(いけだたかし)となったが、池田自身は「貴」という名前を嫌悪していたと述べている[2]。珍しく、生まれた時から歯が二本生えている状態であった。池田の誕生から2年後に弟が誕生し、池田が3歳、弟が1歳の時に一家は名古屋市千種区にある市営団地に転居することとなった[2]

幼少期から池田は左利きであり、幼稚園に入園すると幼稚園教員から右利きに直すよう指導されたが、池田は全く耳を貸さずさらに母親も教員に利き手のことには口を出さないよう要請したため左利きのままとなった[3]。池田はおゆうぎ会などにも子供ながらに批判的な考えを持っており、他の園児がの動きを真似している時に一人だけとんびの動きを真似するなど目立ちたがりな一面を覗かせていた[4]
少年期の怪奇体験

1968年夏、池田の母親はとある新聞の「飛騨川でバス事故。100人遭難」という記事を発見[5]。同記事は1968年8月18日に発生した飛騨川バス転落事故を報じたものであり、最終的に104人が死亡するバス事故史上稀にみる大惨事となった[6]。このバスツアーは池田の母が勤務していた生命保険会社が主催したものであり、同ツアーには池田一家も参加する予定であった上に、谷底に転落したバスは池田一家が乗る予定であったという[6]。しかし池田の母親はツアーへの参加を家族にも内密で拒否、結果として事故に巻き込まれずに済んだが池田の母親は後になって拒否した理由を「とにかくイヤな予感がした」「絶対、行かないほうがいいと思った」と述べたという[6]。池田の母親はこれ以外にも交通事故を瞬間移動によって回避、ダンプカーの下敷きになったものの無傷、名古屋駅前を歩いていた際に意味もなく立ち止まった瞬間に1メートルほど前方に人が落ちてくるなどの不思議な現象を経験していたと池田は述べている[7]

池田が小学校3年生の時、祖父が胃癌で他界[8]。祖父は療養のため長らく入院生活を送っていたが、看病疲れになっていた祖母を休ませるために池田の両親とともに3人で帰宅、しかしその直後に池田の母親は「病院に戻らなきゃ」と強く主張、三人で病院に戻ると昏睡状態であった祖父が目を開け家族に向けて笑顔を浮かべ、その後静かに息を引き取った[9]。その後池田の自宅では夜中に家族以外の何者かの足音が聞こえることや、水道の蛇口をひねって水が流れる音、トイレの水を流す音が聞こえるなどの怪奇現象が起きるようになった[10]。池田にとってこの出来事が心霊現象の原体験となり、心霊関連の書籍などを愛読し傾倒していくようになったと述べている[11]

また上記の体験からおよそ10年後の高校在学中に、父親の意向により反対する母親の意見を押し切る形で一戸建てに引っ越したところ、三か月ほど経過した頃に父親が会社でトラブルを抱えるようになり、遂には会社を退職することとなる[12]。さらに、弟は病気になり、家族間の関係が悪化し喧嘩が絶えない状態となった[13]。その他、池田が友人を招き麻雀を行っていたところ、友人の一人が開いている部屋のドアに透けている見知らぬ初老の女性が立っていると指摘、池田にもその女性が見え全員がパニックに陥り友人たちは帰宅、後に母親と弟から同様の人物を目撃したとの証言を得ることとなった[14]。その後の調査でその一戸建ては池を埋め立てて整地された土地であったことが発覚、池田一家は家を売り払いマンションへと転居することになり、転居先では家族間の不和が解消されたと述べている[15]。また、この出来事が池田にとって初めて霊を目撃した体験となった[15]。さらに、この出来事の後に池田の父親は真言密教僧侶になっている[16]
学生時代の音楽活動池田が在籍していた愛知県立千種高等学校

小学校時代にフジテレビ系トーク番組『スター千一夜』(1959年 - 1981年)を視聴したことを切っ掛けとして、歌謡アイドルグループであるフィンガー5の大ファンとなる[17][18]。フィンガー5のレコードを購入し、生まれて初めてのコンサート観覧もフィンガー5となり、池田は歌と踊りをマスターするために日々練習に明け暮れることとなった[19]。学校で開催されたお楽しみ会において池田はフィンガー5の曲を歌唱し、ライバルとなった女子グループを破って勝利したことから歌に自信を持つようになり、後にミュージシャンを志す切っ掛けになった[20][21]名古屋市立若水中学校に入学した池田は、小学校時代に携わっていた野球部かサッカー部に入部を希望していたが、同校にはどちらもなかったために陸上部に入部することになった[22]。陸上部に入部してから半月も経過していないころ、部の先輩がカーペンターズの「イエスタデイ・ワンス・モア」(1973年)を口ずさんでいるのを聴き、同曲のレコードを購入したことを切っ掛けとして洋楽ミュージシャンへの興味が強くなり、さらにロックに傾倒することとなった[23][24]。ロックに傾倒した池田は後にバンドを結成することになるが、バンドメンバーであった松岡基樹とは小学校4年生の時点で出会っていた[25]。洋楽を愛好していた松岡との出会いにより、池田はカーペンターズの他にもビートルズ、またイエスエマーソン・レイク・アンド・パーマーなどのプログレッシブ・ロックも聴くようになる[26]

この時期に池田は失恋した際にはビートルズの「アイ・ミー・マイン」(1970年)を聴き、NHK総合音楽番組『ヤング・ミュージック・ショー』(1971年 - 1986年)に出演したベイ・シティ・ローラーズの観客とのやり取りを見て感銘を受けるなど音楽に傾倒し、やがてバンド結成を決意するようになる[27]。池田は松岡にバンド結成を持ちかけるも、すでに松岡はバンド活動を行っており、池田はそのバンドにドラムス担当として加入することとなる[28][29]。しかしギターもマスターしたいという願望があった池田は松岡に教わることを忌避した結果、近所の公園でフォークソングを頻繁に演奏している先輩に声をかけ、バンバンの「『いちご白書』をもう一度」(1975年)を教わり生涯初めてギター演奏が出来る曲となった[30]。バンド活動においてはリトル・フィートデレク・アンド・ザ・ドミノスなどのコピーを行っていた[31]。バンド名が松岡の発案により「オーダーメイド」と決定された矢先、NHK名古屋放送局制作のテレビドラマ『中学生日記』(1972年 - 2012年)の「中学生バンド特集」への出演依頼を受け、池田が作詞を行い松岡が作曲したオリジナル曲「人間のおろかさ」を演奏し出演を果たすこととなった[32][33]

その後池田は県内一の超進学校である愛知県立千種高等学校に進学[34]。高校ではサッカー部に入部するも背中を痛め、激痛が続いたことから退部を余儀なくされる[35]。サッカー部を退部した池田はディスコに通うようになりナンパに明け暮れる日々を送りながら、別の高校に進学した松岡とバンド活動を継続して行い、また後にROGUEに所属することとなるベーシスト西山文明ともセッションを行っていた[36]


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