池田謙斎
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池田謙斎

池田 謙斎(いけだ けんさい、1841年12月22日天保12年11月10日[1]〉- 1918年大正7年〉4月30日[2])は、明治時代医者。日本の近代医学の礎を築いた人物。学位は、医学博士華族男爵)、宮中顧問官錦鶏間祗候。諱・秀之、幼名・圭助[2]。通称・桂太郎または謙輔(けんすけ)で謙斎に改めた[2]
経歴

1841年、入沢健蔵の次男[2]として越後国蒲原郡中之島村(現長岡市)に生まれる[3]。幼名は圭助。安政5年3月(1858年1月 - 2月)に江戸に出、伯父の入澤貞意宅に寄宿する。漢学を瀬川道元に、剣術心形刀流伊庭軍兵衛オランダ語を竹垣龍太郎に学ぶ。竹垣の紹介を経て適塾に入門し、1862年に西洋医学所へ入学した。元治元年(1864年)、家格上の理由から、既に死去していた緒方洪庵の養子を経て[4]、当時幕府付の医員であった池田多仲の養嫡子となり[2]、長崎の精得館で邂逅したオランダの医学者ボードウィンに師事する。1868年、江戸に戻った後は小典医として医業に従事する。兵部省医師となり戊辰戦争に従軍[2]明治維新の際に病院医師試補に挙げられ病院医師となる[4]

プロイセン王国への留学を命じられ[4]、1870年よりベルリン大学へ留学、1876年に帰国し、陸軍軍医監、三等侍医、東京医学校校長を経て、翌年1877年には医学校と東京開成学校の統合により設立された東京大学の初代医学部綜理に就任( - 1881年頃)した。1888年に日本では初となる医学博士号を受けた。二等侍医を兼ね侍医局長官となったのち、陸軍一等軍医正となり[4]、それらの功績から1898年2月2日には男爵を叙爵し華族に列した[5]。1898年2月14日、錦鶏間祗候を仰せ付けられ[6]、1902年には宮中顧問官となる[2]西南戦争日清戦争などでも従軍医として活躍した。1918年死去。
栄典
位階


1886年(明治19年)10月28日 - 従四位[7]

1914年(大正3年)7月10日 - 従二位[8]

勲章等


1887年(明治20年)12月27日 - 金製黄綬褒章[9]

1888年(明治21年)5月29日 - 勲二等旭日重光章[10]

1889年(明治22年)11月25日 - 大日本帝国憲法発布記念章[11]

1895年(明治28年)10月31日 - 勲一等瑞宝章[12]

1915年(大正4年)

11月10日 - 大礼記念章(大正)[13]


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