池田真枚
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 凡例池田真枚
時代奈良時代
生誕不明
死没不明
官位従五位下鎮守副将軍
主君称徳天皇光仁天皇桓武天皇
氏族池田朝臣
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池田 真枚(いけだ の まひら)は、奈良時代貴族朝臣官位は従五位下・鎮守副将軍
経歴

天平宝字8年(764年藤原仲麻呂の乱終結後の10月に、乱鎮圧の功労によるものか従八位上から12階昇進して従五位下叙爵[1]称徳朝では神護景雲2年(768年)に検校兵庫将軍の官職が新設されるとその軍監(三等官)に任ぜられる。

宝亀元年(770年光仁天皇即位後まもなく上野介として地方官に遷るが、宝亀5年(774年少納言として京官に復すと、以降宝亀11年(780年長門守として地方官に転じるまで、光仁朝後半はこれを務めた。

桓武朝延暦6年(787年鎮守副将軍となり蝦夷征討に当たる。延暦8年(789年)6月の征東大将軍紀古佐美による陸奥国胆沢(現在の岩手県奥州市)への侵攻に際し、征東副使・入間広成と鎮守府副将軍・安倍?嶋墨縄と共に、北上川の渡河を伴う大規模な軍事作戦を実行したが、蝦夷の族長・アテルイらの軍勢の挟み撃ちに逢って大敗する(巣伏の戦い[2]。同年9月には大納言藤原継縄らから敗戦に関する取り調べを受け、その結果、愚かで頑固かつ臆病で拙劣であり、兵士を進退させる際に平静を失って軍機を逸したことから官位剥奪に該当するところ、日上湊(胆沢にあった北上川渡河港)で溺れていた兵士を救助した功労により解官に留まった[3]
官歴

六国史』による。

時期不詳:従八位上

天平宝字8年(764年) 10月26日:従五位下(越階)

神護景雲2年(768年) 11月29日:検校兵庫軍監

宝亀元年(770年) 10月23日:上野介

宝亀5年(774年) 3月5日:少納言

宝亀8年(777年) 正月25日:員外少納言

宝亀10年(779年) 6月13日:少納言

宝亀11年(780年) 3月20日:長門守

延暦6年(787年) 2月25日:鎮守副将軍

延暦8年(789年) 9月19日:解官

脚注^ 上田正昭、津田秀夫、永原慶二、藤井松一、藤原彰、『コンサイス日本人名辞典 第5版』、株式会社三省堂、2009年 86頁。
^ 『続日本紀』延暦8年6月3日条
^ 『続日本紀』延暦8年9月19日条

参考文献

宇治谷孟『続日本紀 (下)』講談社講談社学術文庫〉、1995年

宝賀寿男『古代氏族系譜集成』古代氏族研究会、1986年

関連項目

大神奥守…『万葉集』巻第十六で、互いのことを嘲笑する歌を詠み合っている。


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