池田氏
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池田氏(いけだし)は、日本氏族。池田家とする場合もある。
概要

諸国の「池田」の地名(池田荘・池田郷など)を発祥とし系譜の異なる諸家があるが、近世大名となった池田家が最も著名[1]。同家は池田恒興織田信長豊臣秀吉の武将として大名に取り立てられ、その息子輝政徳川家康の娘督姫を室に迎えて大大名に出世。その息子利隆忠継らが領地を分け、転封が繰り返された後、1632年以降光政(利隆の子)の子孫は備前岡山藩主、光仲(忠継の子)の子孫は因幡鳥取藩主として廃藩置県まで続いた[1]維新後両家とも侯爵家に列する[2]

その他の池田氏

摂津池田氏 和泉国池田村(現在の大阪府和泉市)を発祥とし、摂津国美濃国に荘官として赴任し池田荘を開いたとされる。源平合戦の頃に、源頼政の弟源泰政が池田氏の養子に入り、泰政の子の泰光が摂津豊島郡を時景(摂津池田氏)、美濃池田郡を泰継(美濃池田氏)に継がせた。平安時代から戦国時代にかけて、摂津源氏楠氏足利氏細川氏三好氏織田氏と主君を変えながら、摂津の有力国人として勢力を保ったが、池田知正の代に荒木村重により下克上がなされ勢力を失った。その後、知正は江戸時代旗本となったが池田光重の代に家臣(親戚とも)の不祥事に連座して改易された。

美濃池田氏 摂津池田氏から分かれた池田泰継に始まるという。近世大名池田氏はこの後裔であるとする説もある。

近江池田氏 近江佐々木氏の一族。六角氏、織田氏、羽柴氏に仕えて豊臣時代に大名となった池田秀氏を輩出した。

伊予池田氏 伊予周敷郡池田郷に住み、池田氏を称した。

出羽池田氏 出羽庄内に住み、朝日山城池田盛周が戦国時代の代表的な人物である。近代以降において、一族より政治家や実業家を輩出した。

近世大名→華族の池田家

池田氏
備前蝶
本姓称・清和源氏[注釈 1]
家祖源泰政
種別武家
華族侯爵)-岡山
華族(侯爵)-鳥取
華族(子爵)-生坂
華族(子爵)-鴨方
華族(子爵)-鹿奴
華族(子爵)-若桜
華族(男爵)-福本
華族(男爵)-天城
華族(男爵)-片桐
華族(男爵)-建部
出身地美濃池田郡池田荘
主な根拠地尾張国
美濃国
山城国
播磨国
美作国
東京
著名な人物池田恒興
池田輝政
池田光政
池田慶徳
池田隆政
支流、分家因州池田家公家華族侯爵))
池田氏一門[注釈 2]
凡例 / Category:日本の氏族


出自の謎

近世大名の池田氏は、後述する摂津池田氏の中興の祖である充正の弟の恒正、あるいはそれより3代後の恒利尾張に移った時から始まるとし、摂津池田氏と同族であることを強調しているが、不確実でなんら確証もない。

江戸時代初期、江戸幕府は諸大名に命じてその系図を提出させたことがあった。池田氏は尾張藩儒官堀正意に依頼し系図を作成してもらったが、因州池田家の分家鉄砲洲家(若桜池田家)の5代当主で学者の池田定常は自分の系図を調べた結果、「今の武家は民間よりあらわれて大名になった者が多いのでその先祖はよくわからない。池田家は池田信輝(恒興)より以前はその実一決しがたい」と述べている。また、新井白石も「池田恒利をもって祖としそれより以前は疑問」と言述している。

その白石が作成した『藩翰譜』(または後世の『寛政重修諸家譜』)によると、源頼光の末裔を自称し、頼光の4世孫でかつ源三位頼政の弟にあたる泰政が初めて池田氏を称したとされる。泰政の9世孫と称する教依(のりより)は内藤満之の娘を妻とした。この妻はかつて楠木正行に嫁いでいたが、正行の戦死で教依に嫁いだという。そのため、教依の子教正が正行の子であるという説が生まれ、この説は池田光政以降も根強く続いたといわれる。そして、教正の5世孫にあたるのが池田恒利というものである。しかしこの系譜は確証性が乏しい。

寛永諸家系図伝』の作成者林羅山(あるいはその子大学頭鵞峰)の言述によると、寛永9年(1633年)に藩主の座に就いたばかりの岡山藩池田光政は「わが家の遠祖は源頼光流とするように」と自らの系譜作成を依頼したという。

池田恒利は滝川氏の出身で、池田政秀の娘(養徳院)の婿となり池田姓を名乗ったが、滝川氏は近江国の土豪とされることから、この池田氏もまた近江池田氏の一族ではないかという説もある。

また、文政4年(1821年)に美濃池田荘本郷村龍徳寺から池田恒利の戒名「養源院殿心光宗伝禅定門」の五輪塔が発見されたことから、近世大名池田氏は美濃池田氏の系統との説もある。
歴史
戦国?安土桃山時代

池田恒利は滝川貞勝の息子とされ、はじめ室町12代将軍足利義晴に仕え、後に尾張織田信秀に仕えたといわれる。その妻池田氏(養徳院)は織田信長の乳母となり、子の恒興は信長の乳兄弟として信長の下で戦功を立て、信長の死後は羽柴秀吉に仕え美濃国大垣城主13万を領した。恒興とその嫡男元助は、小牧・長久手の戦いで豊臣方につき戦死する。
江戸時代

しかし、恒興の次男輝政は逆に徳川家康に接近して娘婿となり、以降池田家は外様でありながら徳川家一門に準ずる扱いを受けるなど、破格の待遇を受けるようになる。関ヶ原の戦いでも徳川方につき、戦後功により播磨52万石を与えられ姫路藩主となり、姫路城に現在に残る大規模な改修を行った。

1603年慶長8年)、輝政の次男忠継は、兄利隆の監国で備前28万石を与えられ、岡山藩主となった。さらに1610年(慶長15年)には、輝政の三男忠雄淡路一国6万3千石が与えられ洲本藩主となる。1613年(慶長18年)、輝政が没すると、播磨の遺領は長男の利隆が相続し、10万石分だけ弟の忠継に分与された。これにより忠継の領国は備前岡山藩38万石となった。他に池田長吉(輝政の弟)は鳥取6万石を領した。

利隆の没後、嫡男光政は幼かったことから播磨姫路藩42万石から因幡伯耆二か国の32万石に移封となり鳥取藩主となった。長吉の長男・長幸は鳥取から備中松山へ移された(長常のとき改易、長信が井原1000石の旗本となる)。

備前は忠継の没後、弟の忠雄が家督を継ぎ岡山31万5200石(分与と赤穂藩の2度の改易で減封)を領し、淡路一国6万3千石は収公された。しかし忠雄の没後、嫡男光仲が幼少であったことから鳥取藩の光政と入れ替えられた。以後、光政系が岡山藩、光仲系が鳥取藩を相続した。

幕末の岡山藩主池田茂政は「尊王翼覇」を唱えて朝廷、幕府、長州藩の間を取り持つ国事周旋に奔走していたが、茂政の実兄徳川慶喜が将軍に就任すると討幕に踏み切れず、支藩の鴨方藩主章政を藩主に代えて征東軍に参加した[3]。また鳥取藩も慶喜の弟池田慶徳を養子に入れていた関係で藩論の統一に苦労したが戊辰戦争では官軍に属して明治維新を迎えた[3]
明治以降因州池田侯爵家の別荘だった仁風閣鳥取県鳥取市)。明治40年に竣工したフランスルネサンス様式を基調とした白亜の洋館。ゴシック様式の八角尖塔は階段室になっている[4]

明治2年(1869年)には戊辰戦争の戦功により鳥取藩には3万石の永世禄、岡山藩には2万石と3年間の年限禄1万石の賞典禄がそれぞれ下賜された[5]

岡山・鳥取両池田家、4つの支藩(備中生坂藩、備中鴨方藩、因幡鹿奴藩、因幡若桜藩)の池田家6家は、版籍奉還でそれぞれの藩の藩知事および華族となったのを経て廃藩置県まで藩知事を務めた[6][7]。また旧交代寄合だったが維新立藩播磨国福本藩主となった福本池田家も版籍奉還で福本藩知事になったが、廃藩置県前に本藩鳥取藩と合併して廃藩している[8][7]。3000石の一般旗本の池田頼誠も明治初年に岡山鳥取両池田家の助力を得て諸侯昇格運動をしていたが、不許可に終わっている[9]

1884年(明治17年)の華族令施行の際に岡山家と鳥取家は旧大藩知事[注釈 3]として侯爵[10]、生坂家、鴨方家、鹿奴家、若桜家は旧小藩知事[注釈 4]として子爵[11]、福本家は「一新後華族に列せられたる者」として男爵にそれぞれ叙せられた[12]。また後に岡山藩万石以上一門家臣だった天城池田家池田政和片桐池田家池田長準建部池田家池田博愛も勲功により男爵に叙せられた[13]。以上10家が池田氏から出た華族となった。このうち福本池田家は経済的事情から明治27年(1894年)に爵位を返上した。大正3年(1914年)に福本池田家の旧臣家の出である陸軍中将藤井茂太らが福本池田家の経済力は復したとして再叙爵運動をやっているが却下されている[14]

昭和前期に池田宗家の邸宅は東京市芝区高輪南町[15]、因州池田家の邸宅は東京市渋谷区原宿[16]、生坂池田家の邸宅は東京市渋谷区千駄ヶ谷[17]、鹿奴池田家の邸宅は東京市渋谷区原宿[18]、天城池田家の邸宅は東京市中野区氷川町にあった[19]

池田宗家は、隆政の代である2012年に1度断絶したが、2023年3月に日本カバヤ・オハヨーホールディングス社長の野津基弘が、夫婦で隆政夫人の池田厚子と養子縁組した。


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